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2020年3月29日 (日)

戦国期の斐伊川東流路1

 吉田東伍氏『大日本地名辞書』(以下では『辞書』)については、名前を知っている程度だったが、明治三五年(一九〇二)神社由緒書に引用されていることもあり確認した。出雲国を含む上巻の刊行は三年前の事であり、当時の神社関係者の教養の程度がうかがわれる。
 『地学雑誌』を引用しつつ、斐伊川が寛永一二年(一六三五)の洪水ではじめて東流し、七筋に分かれて宍道湖に入ったとし、京極氏による堤防の整備に触れているが、一説には慶長以前から東流していたとの考えを示し、その根拠として斐伊川西流路に該当する場所に、建長(大社遷宮注進状)・康元(大社領注進状)の史料に高岡、稲岡、常松などの地名がみえることを上げている。この点については『島根県史』の編纂者野津左馬助氏も気づいていたが、スルーしてしまった。そして斐伊川が完全東流したのは寛永以後であるが、建長年間にはすでに西流とは別に東流する支流があり、「水勢二大方向に分かれつつありしものならん」と結んでいる。
 まったくその通りであり、課題はその実態を具体化することである。その意味では美多実氏や藤沢秀晴氏が寛永期東流説を誤りとしたのは正しい。本ブログでも一〇年ほど前から、中世における東流の実態について述べてきた。ところが、最新の『松江市史通史編』近世1では寛永期東流説が自然科学的分析により裏付けられたとの記述がなされてしまった。
 寛永年間の洪水がいつのものであったのかも不確かである。『島根県史』は最終的という意味であろうか、寛永一六年の洪水としているが、これでは藩主は京極氏から松平氏に交代してしまっている。『辞書』では寛永一二年とされていた。島大教育学部林正久氏作成の「出雲・石見地方の自然災害と環境改変史」年表を参照すると、寛永一〇年にも出雲地方で大洪水があったと記している。
 由緒書から関連する内容を挙げると、高浜村平野の大土神社由緒書は寛永一二年の洪水で東折れの支流が膨張し、その後大河の本流となったことと、その後の洪水で古記が流出したこと、過去の棟札が寛永年間の洪水で紛失したことを記している。また、内陸部の事例であるが、稗原村野尻の天満宮(その後大歳神社境内社)由緒書は寛永一二年の大水で社地崩壊したことを記している。出西村併川(近世の千家村)の客神社由緒書には、寛永の大洪水の際に、付近の住む竹内某が水害で家屋が流出せんとしたので産土神社に祈願して水難を免れたことを記している。

 

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