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2020年3月24日 (火)

古文書学の重要性

 倉恒康一氏「国立国会図書館所蔵の石見小笠原氏関係史料について」(十六世紀史論叢11号、2019.3)を読んだ。国会図書館所蔵の関係文書はいくつか知られていたが、この文書は井上寛司氏作成の文書目録にも掲載されていない、新出史料である。検索してみるとヒットし閲覧可能で、「小笠原長雄消息 永禄四年」の貼り紙が付されている。昭和二三年(一九四八)五月二八日に寄贈されたものである。本来は宛名の「清泰寺」の文書であろう。井上氏を中心に小笠原氏関係史料集の編纂が進められているので、その一連の調査で確認されたものであろう(ただし、井上氏から提供された史料集の文書目録には未掲載であり、その後の確認か)。
 今回の史料は永禄四年付年号のある五月二〇日付書状で、同日の小笠原長雄感状も残されている(清水家文書)。小笠原氏が毛利氏方として尼子氏方の山吹城を攻撃した事で戦果があったとして、清泰寺に一寺を進めるので、今後も協力することを求めているが、その使者としては一族の長秋があたっている。感状の方は一族の大蔵丞に宛てて、従僕の軍功を賞しているが、「長朝忠義」についても触れている。「長」の字を付けていることからこれも一族の人物で、あるいは大蔵丞の子源五郎であろうか。
 問題はここからで、倉垣氏が「横道助十郎」という存在しない人物に言及していることである。感状がそうだったように、宛所で苗字が省略されるのは小笠原氏一族であり、「助十郎」も家臣横道氏ではない。この点については、「尼子氏の石見国進出をめぐって-石見銀山、吉川氏・小笠原氏との関係を中心に-」(『山陰史談』29、2000)で、島根県史以来の通説が誤りであることを根拠を示して指摘している。記事の題名を「古文書学の重要性」としたのはそのためであった。前にも述べたが、若い内に中世前期についても学んでおくと、戦国期の研究にも役立つ。
 以前、益田庄内の乙吉氏が益田本郷地頭を訴えたことにより、六波羅探題が「益田本郷地頭代」に説明を求めた史料に基づき、益田氏がこの時点では益田本郷を没収されていたことを明らかにした(1992年島根県中世史研究会報告「益田氏惣領制の再検討」)が、そこでは文書を残したのは利益を得る乙吉氏であることも確認していた。ところがその後の研究で、文書を残したのは益田氏で、益田氏が益田本郷地頭代であるという古文書学を無視した説が出され、西田氏がはじめて益田氏について述べた論文でもその説が踏襲されていた。校正段階の原稿をいただいたので、西田氏に誤りであることを伝えたが、氏の返事は「通説だから」というものであった(現在では誤りであることを確認済み)。
 通説とは多くの研究者が支持し、且つ根拠がある説である。源義親が義家の嫡子で、その子が為義であるという説は多くの研究者が採用していたが、明白な誤りで、為義は義家の嫡子義忠の同母弟であった。杉橋隆夫氏「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」で説かれた、北条時政の後妻牧の方が、池禅尼の弟宗親の娘であることも、現在でも多くの専門家が支持しているが、根拠無き誤りである。禅尼の弟宗親は諸陵助に補任され(『兵範記』)てまもなく死亡し、兄宗長のように国司となることはなかった。『日本歴史』2020年1月号の特集記事では、野口華世氏が「崇德天皇叔父子説」について、近年の研究が否定的であるにもかかわらず、現在でも歴史書に書かれている(例えば坂井孝一氏『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱』 (中公新書)でも、院政を評価するため述べられているが、「自分できちんと調べて書きましょう」という助言しかできない)ことを述べている。すべては論者が自分の責任で確認しなければならない。

 

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