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2020年3月 8日 (日)

承久の乱後の出雲・隠岐国司

 この点について、両国守護佐々木義清との関連で再度確認する。
 出雲国は、朝廷=守貞親王(後高倉院)と幕府(頼朝)の両方との関係が深い持明院家行が知行国主となったことは前述の通りである。京方の武士が多かった出雲国の混乱に、幕府と連携しつつ対処できるのはこれしかないという人事であった。当初はその子家定が国守に起用された可能性が高いことも述べた。家定は幕府にも祗候し、二階堂基行の娘との間に生まれたのが持明院少将基盛(文永八年の長海本庄地頭)であった。次いで、嘉禄元年正月に出雲守護佐々木義清が国守に起用されたが、嘉禄二年二月一七日に家行が死亡したことにより、義清は一年余で退任した。しかし、その直後の三月一一日には隠岐守に補任された。隠岐守は承久の乱の前後を通じて二階堂行村等幕府関係者が国守であった可能性が高いが、行村の子が基行である。
 以前の記事では、義清が家行の後任二条定輔のもとでも出雲守であったかの記述をしたが、国守は兼任できないので修正する。ただし、退任後も出雲国衙と出雲守護所の関係は継続したと思われる。安貞二年五月日藤原光清家政所下文の署判者「前隠岐守源朝臣」が義清であったことを述べたように、隠岐守も一年前後で退任しているが、隠岐国衙と隠岐守護所の関係も継続したと考えられる。それを示すのが、宝治二年四月二五日佐々木泰清袖判下文であり、田所義綱に隠岐国船所の沙汰を相伝に任せて宛行っている(村上家文書)。
 持明院家行の死亡後、出雲国知行国主に起用されたのは一二歳年長(六四歳)の二条定輔であった。彼について補足すると、その姉妹三人(藤原親信の娘)が出雲国知行国主藤原朝方の子朝定・朝経兄弟の妻となっている。朝経の子朝俊は弓馬・相撲を芸とし、父定輔が知行国主であった常陸国の介(親王任国であったため、公家の最高位は介であった)を務め、退任後は兵部大輔、右兵衛佐として後鳥羽院の近臣となり、承久の乱でも京方となり戦死している。朝俊の子には朝宣と朝時がみえ、それぞれ常陸介、出雲守の尻付がある(『尊卑分脈』)。定輔は甥朝俊退任後も常陸国知行国主の地位にあり、朝俊の子朝宣を常陸介に起用したと思われる(これは承久の乱の前)。一方、乱の直後に恐懼に処せられた定輔は間もなく復活し、出雲国知行国主となった。その際、国守に朝俊の子朝時を起用したと思われる。朝時は出雲守藤原朝経の孫であった。
 以上、守護佐々木義清に関連して修正・補足を加えた。

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