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2020年3月

2020年3月31日 (火)

船村徹2タイトル落札2

 「さよならの旅」を歌った歌手が印象深かったが、当然音声のみである。LPの写真をみると弥乃由美とあった。調べてみると1975年にシングルとして発売された作品のようである。1985年には「新宿情話」のオリジナル歌手ムーディ松島と「やすらぎ・めぐり逢い」を、鳥羽一郎「祭り唄」(最近では村木弾が「さんざし恋歌」のB面に収録。作詞は同じ小学校の先輩船村=一年生と六年生、に憧れて作詞家となった木下龍太郎)とのカップリングで出している。以前「船村山脈」との語を使用したが、あまりに深くて遭難しそうである。木下には誰でも知っている名曲「わすれな草をあなたに」(1963、25才)や「鳥取砂丘」(2003、65才)などの水森かおり作品があることを今認識した。出身地は以前、作詞家のインタビューサイトで知っていたが‥‥。2004年には「釧路湿原」で作詩大賞を受賞したが、2008年に志村けん氏と同じく七〇才で死亡している。「肺がん」とあり、志村氏と同様、ベビースモーカーであったのだろう。確か、鳥羽一郎のファンであった村木が、船村に弟子入りを希望する電話をかけた際に、電話に出たのが木下だったはず。村木の弟子入りは2003年7月とある。「鳥取砂丘」は2003年4月の発売とある。インターネットはつくづく恐ろしいもの。
 1978年に船村はコロンビアとの専属を離れフリーとなった。このアルバムは初代船村徹の記念碑とでも言うべきものとなった。二代目は演歌巡礼で各地を廻りながら始まったが、家族の話ではいつになったら作曲をするのか不安であったとのこと。1979年には「別れの一本杉」の春日八郎に四半世紀ぶりの作品となる「夜行列車」(中山大三郎作詞)を提供している。何故か「雪国の人」が記憶に残っているが、これは作詞・作曲とも遠藤実で、1978年の作品。第一回古賀政男記念大賞を受賞した「風雪流れ旅」は1980年の作品だが、これもフリーになったことで、星野哲郎、北島三郎とのコンビが復活したもの。これに対して初のレコード大賞「矢切の渡し」は「酒場川」(1976)のB面で初代の時期の作品である。二回目の「北の大地」(星野、北島)は1991年の受賞だが、この時期はポップス・ロック部門(「愛は勝つ」)と歌謡曲・演歌部門に別れており、シングル売上1位のチャゲ&飛鳥(1988年にちあきに「伝わりますか」を提供するとともに同年の自らのアルバムでカバーしたが、1984年の作曲という)と2位の小田和正とともに受賞を逃している。「北の大地」そのものはスケールの大きい名曲であるが、北島作品の中では泥臭さが少ないためか、ファンの注目度は高くなさそう。島津亜矢と北島の弟子がカバーしているぐらいか。船村自身が歌う「雨という奴ぁ」「その人の歌」「別れの一本杉」はCD版にもあるが、初代の若き声で聴きたい。舟木の作品「その人は昔」「夏子の季節」「夕笛」とともに、当時の新曲「津和野川」、さらには美空ひばりのカバーである「哀愁波止場」も同様である。アルバムが北海道から届いたら、LPレコードが再生可能なデッキの算段が必要となるが、現在あるものが使用できなければ、購入の検討が必要となる。

船村徹2タイトル落札1

 過去に購入したが、紛失した2タイトルを本日入札し、落札した。
 一つは細川たかし「こころの唄、哀愁の船村メロディ」(カセットテープ、1986)。「矢切の渡し」の時期のもので、現在もCDの同名アルバムが購入可能だが、第二版というべきもので、いくつかの作品が変更されている。「砂山」「那須の吊り橋」などの記憶に残る船村作品を聴いてみたかった。これは以前から気になっていたが、入札するか迷っていた。それが本日のニュース「志村けん死亡」が後押しをした。
 もう一つは船村徹作曲家生活二五周年記念リサイタル「ふりむけば二昔半」のLP二枚組(1975)である。まさかと思い検索したら、オークションに出品されており、競合することもなく落札できた。大学入学前によく聴いていたが、大学四年間の途中で実家の増改築があったため、知らないうちに処分されていた。四〇数年ぶりの再会である。このアルバムはコアなちあきファンなら周知のもので、ちあきが歌った船村作品のライブ音源は、ちあきの大全集(ユーキャン版)に収録されている。以前、北海道の業者からPCをオークションで入手したことがあった。現在でもWINDOW7が入った状態で、使用は可能であるが、ほぼ新品同様で2万円ほどであった。
 アルバムにもどると、残念なのは「美空ひばり」が参加者にみえないことである。ただでさえ難しい中、当時は親族のトラブルから紅白出場を辞退していた(その後も出場なし)。確認すると一九七七年のビッグショーで四年半ぶりにNHKとの関係を修復とある。リサイタルではちあきが「波止場だよおとっつぁん」「ひばりの佐渡情話」をカバーし、貴重なものとなった。
 織井茂子「夜が笑っている」はちあきがカバーしているが(「もうひとりの私」1972)、当方は1976年の第二版で出逢い、オリジナルの織井版の印象も強く、作詞家星野哲郎氏の初期の作品として「黄色いサクランボ」(浜口庫之助作曲、この作品もドリフターズの全員集合で広く知られるようになった)とともに注目し、「夜へ急ぐ人」(1977)に通ずる世界観を感じた。船村徹と仲間バンドの結成以前で、ギタリストは斎藤功氏ではなく木村好夫氏が特別出演している。

2020年3月30日 (月)

志村けん氏死亡

 新型コロナウィルスで入院中の病院で死亡。享年七〇才。高齢者を中心に世界中で多くの方がなくなっている。ともにご冥福をお祈りしたいが、一寸先は闇であり、誰もどのような形で最期を迎えるかはわからない。ドリフターズのリーダーいかりや長介は、晩年の「取調室シリーズ」を視た(といっても視たのは最近になって)が、七二才で死亡していた。
 訃報を聞いて思い出すことは人それぞれだろうが、ユーチューブ上にアップされている「夜へ急ぐ人」の動画が見たくなった。当然、オリジナルのちあきなおみバージョンも、作詞・作曲を行った友川カズキバージョンもアップされている。志村バージョンはパロディではあるが、この曲の存在をオリジナルを知らない世代に知らしめた功績は大きい。2012年に岡村隆史はそこから作者友川に関心を持ち、ラジオ番組にゲストとして招いている。志村がこれを取り上げたのはいつかを調べたが、一九九五年度後半の「志村けんのオレがナニしたのヨ?」の中で作成されたもので、田代、桑野の姿もみえる。(岡村は895回ナイナイANNで「だいじょーぶだ」なんかの中のものと述べている)。当時志村は四五才で、一人で活動していた時期のものであった。
 友川は、志村と同い年で、ちあきは三才年上であるが、友川はちあきに曲を七作品(アルバム『あまぐも』(河島英五と友川作品、バックのバンドはゴダイゴ)に「普通じゃない」「視角い故里」「男と女の狂騒曲」「マッチ売りりの少女」)提供している。「夜へ急ぐ人」(1977)のB面「海のそばで殺された夢」と、「祭りの花を買いにいく」(1991、アルバム『百花繚乱』)。「祭り」は友川バージョンもアップされているが、「海の」を聴くには、ちあきの全集ものを買うしかないか。友川は「祭り」ではともかく「裏の鈴木商店で」という言葉を使いたかったという。いずれにせよこの二人とちあきの実質的プロデューサーであった夫郷鍈治の出会いにより生まれたものだろう。
(追記)今年二月一四日(金)のNHKラジオ第一のすっぴん(以前は通勤途中に聴いていたが、退職直後までで、ここ三年近く聴いていない)に友川カズキがゲスト出演しているが、その音声を聞いた。金曜日のパーソナリティ高橋源一郎氏は1951年の生まれで、競輪、競馬との違いはあるが共通点が多いと両者とも確認していた。この世代といって連想するのは七〇年安保であるが、自身は中学生で、万博に行かなかった事とビアフラの独立が鎮圧された事以外、何も関係する記憶はない。首相の世代よりははるかに問題意識を持った世代(池上彰氏ぐらいか)であったろう。

2020年3月29日 (日)

戦国期の斐伊川東流路3

 出東郡内の大社領が神門郡内に移った原因としては斐伊川の東流路が移動したことが考えられる。一三世紀半ば過ぎには、東流路は北島村の北側から、現在よりも東よりのルートで北東方向に進んでいたと思われる。天正元年以前の洪水に関する情報はないが、やはり洪水により、流路が北東方向から北方向に変わり、大社領であった武志郷の一部と鳥屋郷が東流路によって分断された。それを受けて、東流路東岸になった大社領を神門郡内に移動させる原因になったと思われる。
 それに関わるのが、尼子氏による原手三郡の指定である。従来の神門郡、出東郡、大原郡(中郡とも呼ぶ)を併せて原手三郡とし、直臣である冨田衆を原手三郡奉行職に補任して出雲国西部への支配を強化した。斐伊川東岸の斐川平野の中で唯一楯縫郡内である多久郷に所属した久木村に富田八幡宮を勧請した。並行する形で、宍道湖北岸の楯縫郡、秋鹿郡、島根郡を島根三郡とし、これまた三郡奉行職に富田衆を補任した。それと関係するのが、享禄二年六月二八日の経久による佐陀神社への社参であろう。
 神門郡内塩冶郷を支配する塩冶氏に養子に入っていた尼子経久の三男興久は、本来、ともに勝部宿祢領ということで関係の深かった島根郡内の所領に対して経久が干渉を強めたことに不満を強めた。軍記物の記述であるが、興久の所領要求に対して、経久は国外の備後国内の所領を与えると回答した。その所領は尼子氏の支配地ではなく、軍事活動による制圧を必要としていた。これを聞いた興久は、原手の所領を要求したとされている。
 時期の特定には情報が不足しているが、由緒書の記す天正元年ではなく、一六世紀初めに斐伊川東流路が北東から北に変わったことを契機として、出東郡内の大社領が神門郡内に移動したと思われる。
(付記)当初の「嘘も積もれば真?となる」との題名から変更した。

戦国期の斐伊川東流路2

 これに対して、大津村大石の阿須理神社由緒書は「大津龍王神社古今神秘集」を引用して、
「天正元年洪水堤防破壊ニ至り川尻ヲ出雲〔出東〕郡中間ヨリ北流シテ楯縫郡ヲ東流シ意宇海ニ入ル、依之出雲郡半余ニ割神門郡ニ編入シ旧高六万余ノ大郡トナリ、故ニ田畠共ニ増殖セル」としている。天正元年の洪水で堤防が決壊したため、出雲郡(当時は出東郡)中部から斐伊川が北流し、現在と同じく楯縫郡を東流して宍道湖に入るようになったことと、これにより出雲郡の半分近くが神門郡に編入され、神門郡が大郡になったとする。
 寛永説を批判する藤沢氏が重視するのが天正元年(一五七三)八月二八日の洪水である(大津森広家譜、中溝文書)。出雲大社の庄官中溝三郎五郎が人夫を連れて大津壇の上から平田までの間の川除修理を行っているので、洪水以前から平田付近を斐伊川が流れていたことが確認できる。
 風土記の時点では出雲大社は出雲郡内にあり、院政期以降成立した中世の大社領も多くは出東郡内に所属したと思われる。出雲郡から出東郡への名称変更は、出雲国衙に隣接する「出雲郷」が成立したことに伴うものである。大社そのものが神門郡に属した時期は不明だが、一六世紀前半には出東郡内の大社領が神門郡に変更されたことが確認できる。
 永正七年(一五一〇)三月一五日には千家豊俊が中助十郎に対して神門郡杵築大社領内の抜地(永代売地)を本領として安堵しているが、これは神門郡が大社にかかるのか、所領(複数の郡に散在している)にかかるのかが不明である。大永四年(一五二四)七月一七日小野政忠譲状には「雲州神門郡日御崎神主職」とみえ、この時点で大社領の浦々に隣接する日御崎神社が神門郡内となっていることがわかる。大社そのものも同様であろう。日御崎社関係ではこれ以前にも「神門郡」とするものがあるが、それは後世作成されたものである。大社領そのものが神門郡に移動していることが確認できるのは天文一二年四月六日大内義隆袖判安堵状(小野家文書)で、大野氏が安堵された所領に「神門郡富郷内」がみえている。次いで翌年四月五日栖雲寺光普売券にも「神門郡出西之郷」とみえる。

 

戦国期の斐伊川東流路1

 吉田東伍氏『大日本地名辞書』(以下では『辞書』)については、名前を知っている程度だったが、明治三五年(一九〇二)神社由緒書に引用されていることもあり確認した。出雲国を含む上巻の刊行は三年前の事であり、当時の神社関係者の教養の程度がうかがわれる。
 『地学雑誌』を引用しつつ、斐伊川が寛永一二年(一六三五)の洪水ではじめて東流し、七筋に分かれて宍道湖に入ったとし、京極氏による堤防の整備に触れているが、一説には慶長以前から東流していたとの考えを示し、その根拠として斐伊川西流路に該当する場所に、建長(大社遷宮注進状)・康元(大社領注進状)の史料に高岡、稲岡、常松などの地名がみえることを上げている。この点については『島根県史』の編纂者野津左馬助氏も気づいていたが、スルーしてしまった。そして斐伊川が完全東流したのは寛永以後であるが、建長年間にはすでに西流とは別に東流する支流があり、「水勢二大方向に分かれつつありしものならん」と結んでいる。
 まったくその通りであり、課題はその実態を具体化することである。その意味では美多実氏や藤沢秀晴氏が寛永期東流説を誤りとしたのは正しい。本ブログでも一〇年ほど前から、中世における東流の実態について述べてきた。ところが、最新の『松江市史通史編』近世1では寛永期東流説が自然科学的分析により裏付けられたとの記述がなされてしまった。
 寛永年間の洪水がいつのものであったのかも不確かである。『島根県史』は最終的という意味であろうか、寛永一六年の洪水としているが、これでは藩主は京極氏から松平氏に交代してしまっている。『辞書』では寛永一二年とされていた。島大教育学部林正久氏作成の「出雲・石見地方の自然災害と環境改変史」年表を参照すると、寛永一〇年にも出雲地方で大洪水があったと記している。
 由緒書から関連する内容を挙げると、高浜村平野の大土神社由緒書は寛永一二年の洪水で東折れの支流が膨張し、その後大河の本流となったことと、その後の洪水で古記が流出したこと、過去の棟札が寛永年間の洪水で紛失したことを記している。また、内陸部の事例であるが、稗原村野尻の天満宮(その後大歳神社境内社)由緒書は寛永一二年の大水で社地崩壊したことを記している。出西村併川(近世の千家村)の客神社由緒書には、寛永の大洪水の際に、付近の住む竹内某が水害で家屋が流出せんとしたので産土神社に祈願して水難を免れたことを記している。

 

防災ハザードマップの活用

 地形の状況と災害の程度について素人にはイメージがつかみにくいが、近年では各地で防災ハザードマップが作成されていることを思い出した。さっそく松江市と出雲市分を閲覧してみると、近年の洪水で最大なのは、一九七二年七月前半(9日~14日、出雲市版)のもの(6日分の斐伊川流域平均の総雨量が538mm)で、次いで二〇〇六年七月半ば(17日~19日)のもの(同378mm)である。前者は出雲市版(こちらが情報が詳細)によると一八九三年以来の宍道湖の氾濫をもたらしたとする。とここまで書いて、年次の表記が元号なのは非常にわかりずらい。近年の事のみを扱うならば元号でも可だが、長い時期を対象とする行政文書は西暦を基本とし、必要に応じて元号を付記する形にすべきである。中世を主に扱う本ブログの記事でも、西暦で表記しないと読み手には理解しにくいことを確認させられた。
 床上(全壊・半壊を含む)、床下浸水の状況は、前者が松江(5900と14485)、出雲(2085と2652)、後者が松江(212と1215)と出雲(135と70)と、斐伊川下流である松江市の被害が大きい(前者では四倍、後者では七倍である)。竹矢(実際はその対岸福富町)新阿弥陀寺が一四世紀半ばに水損により竹矢の高台に移転していたが、48時間(2日分)総雨量が斐伊川流域516mm、宍道湖・中海地域505mmという想定では0.5m以上1.0m未満の浸水地域が福富町で広範囲にみられる。前者の際の空中写真、地図をみた際には、当該地域での浸水はほとんどなかったと理解していたが、もう少し降水量の密度が高いと浸水することがわかった。ただし、もう一つのケース(意宇川流域全体の24時間雨量589mm、ピーク時の1時間に129mmの場合は竹矢側(八幡町)のみで、北岸福富町では冠水していない。
 出雲市版では計画規模(斐伊川流域の48時間の総雨量399mm)と想定最大規模(同516mm)に分けて掲載されている。これにより各地域の高低差を確認できるし、大きな川の氾濫とともに、傾斜地で土石流が発生することにともなう洪水があることも確認できた。過去の記録で神社が流されたり、洪水により移転したのはこの二つの理由のためであった。また、斐伊川上流のダムの建設と下流域での河川改修により、一九七二年の洪水でも流路が変化するまでの被害は発生していない。一面では進歩であるが、問題はこの想定を超えると被害が飛躍的に拡大することである。近世までは人々の生活は洪水との共存を前提とし、洪水多発地域には住居はなかったが、現在では湿地帯を埋め立てたりして居住地にしている。松江市内の大橋川両岸地域がその典型であり、一面では災害に対してもろくなっている。都市は地下施設も多いが、近年のタワーマンションの被災にみられるように、洪水には極めて弱く、発電機能が失われたりもしている。
 前の記事で、荒野の開発には、洪水に遭遇しやすい湿地帯の克服が必要な地域と、洪水の危険性は低いが水供給が困難で、灌漑施設が必要な地域があることについて述べたが、自然地理学の知識がさほどなくても、ハザードマップを参照することで、議論が可能であることが確認できた。

2020年3月28日 (土)

一利しかない、斐伊川流路から

 「百害あって一利なし」との言葉があるが、この場合は一利(一理)があるのみという意味で使用している。
 ブログで江戸末期の神社と風土記時代の神社を結びつける作業について批判した。その最大の理由は途中の過程(平安~江戸中期)を無視していることにある。それを踏まえた作業なら害は少ないが、これまであった作業の大半は踏まえていない。『出雲国風土記』が唯一の完本として残ったため、江戸後期には出雲国内のみならず、国外の研究者による作業が行われ、研究史の整理も行われている。各神社が自らの神社としてのランクを上げるため、願書を出しているが、そこでも関係文献が引用されている。ただしその記述は根拠薄弱で、当たるも八卦、当たらぬも八卦とのレベルである。
 現在、必要に迫られて斐伊川の流路について検討しているが、過去の説は風土記の時代と寛永年間を一直線に結びつけ、その過程を無視したものであった。その意味で、美多実氏や藤沢秀晴氏が主張したように、過去の説は誤りである。ところが最新の研究成果であるべき『松江市史通史編』近世1でも過去の説が踏襲されてしまったのである。「ほかに良い説がないので」と言えば、現在の内閣支持の理由を想起させるが本当だろうか。
 当ブログでも過去にこの問題について述べたが、荒野の開発について、水害に遭いやすくコントロールが難しいという面の克服にのみ注目していた。一方では灌漑が不十分なための荒野もあったはずである。大まかに言えば、現斐伊川の東岸では前者が中心であったが、西岸では洪水の危険性は低く、後者が中心であった。三月一四日の斐伊川東流問題検討会でも気になったところであった。また「明治三十五年寺社由緒書」の高岡八幡宮の項でも、旧神官永田家の古傳口述として「高岡ハ土地高クシテ、荒地延長元年開墾ニ付、同年八月十四日八幡宮ヲ村ノ上ニ鎮座セシメ、夫ヨリ荒地を開発ニ着手シタル」と記されている。延長元年(九二三)については検討の余地があろうが、神社や寺院が開発の拠点として開設されることはよくある。塩冶郷内北部高岡では、洪水の危険性の克服ではなく、灌漑施設の整備が課題であった。
 西岸地域で洪水の危険性が低かったことは、現在の生活面からどの程度掘り下げれば目的の時代の遺構面に到達できるかの比較でもわかる。東側は砂が五メートル以上は堆積しているのに対して、西側は一メートル程度であるという。斐伊川の水位が上昇した場合、最初に溢れるのは東側である。それも宍道湖に至る数多くの中小の流れがあったため、これが遊水池の役割を果たしていた。このため平野北部で洪水があることは少なく、且つ宍道湖に早い流れが流入することもなかった。例年並みの降水量ならこれで対応可能で、大きな問題とはならなかった。これが数十年に一度の降水量となると、西側でも大規模な洪水が発生したであろう。ただし、南側で先に溢れるため、北側になればなるほど洪水の程度は小さくなる。
 寛永年間の出雲国絵図をみると、斐伊川から西流する流れはなく、これに対して東流路は何本もあるが、飛び抜けて大きい流れはない。それが一八世紀の絵図になると、北流し其の後東流する流れが圧倒的な規模で、他の流れは小規模化している。一方、寛永期にはなかった西流し日本海につながる川がみられる。洪水防止と舟運のため開削されたものであろう。以前とは異なり、平野北部まで大量の水流がもたらされ、豪雨の規模によっては洪水が発生した。実際に楯縫郡平田周辺では洪水とそれにともなう川違えがみられる。一九世紀の絵図をみると、洪水対策として、東岸南部を東流する大きな流路が開削されている。同様に西岸南部から日本海につながる大きな流路も開削されている。これにより、平野北部で東流する流路の占める割合はやや低下した。宍道湖へ流入する速度も一七世紀半ばが最大で、その後はやや低下している。

2020年3月26日 (木)

Windows10へのup grade

  複数のネット情報を同時に参照するため、インターネットエクスプローラー(IE)、エッジ、クロームを同時に使用している。WINDOWS7のサポートが終了して10のパソコンの販売が伸びているようだが、使用目的によっては現在のPCの7、8.1(8の場合は先ず8.1へアップグレードしてから)から10にアップグレードする選択肢もある。最新パソコンならメモリーは十分であろうが、低価格のパソコンはHDD搭載なので、動きはスムーズではない。すでに買って後悔した人は3.5インチSATAタイプのSDDが最近は安価なので交換するか。デスクトップPCならSDDへの交換も可能だが、ノートについては不透明である(現在所持するノートPCで最も新しいのは六年前のものであるので、最近のノートがどうなっているかはよくわからないが、HDDのタイプなら交換は容易で、小容量のSDDの場合は交換可能かは機種による)。現在のパソコンのメモリ-を4Mとして、SDDに交換すれば、10にアップグレードしても問題なく使用できる。10が登場した当時に、それより一〇年ほど前のパソコンでも、上記の条件を満たしていればスムーズであった。さすがに、HDDの場合は遅くなり、8.1に戻した。
 今回は、メモリ4M、8.1のパソコン(2008年8月発売)を10にアップグレードしたが、OSが正規品でライセンス認証が行われていれば、現在でも無償でアップグレードができる。ソフトも特別に古いものを除けばそのままの環境で使用できる。ノートPCは液晶とキーボードが命であり、低価格の新パソコンでは十分満足できない人は、アップグレードがお薦めである。作業にはある程度の時間が必要であるが、その間のネットの閲覧はスマホでもできる。HDDの場合は、旧OSでSDDに乗り換えた後に、10にアップグレードをすればよい。SSDに環境を移行するのはフリーソフトで可能である。
 10のメリットはエッジが使えることである。IEもなおサポートされているが、「OSのファイルが壊れています」などの偽表示が出るのはIEの場合であり、エッジやクロームではまずない。8.1のサポートも2023年1月10日で終了するし、エッジを使うことはできない。買い換えた場合は新たにソフトの再インストールも必要となり、元と同じ環境というわけにもいかない。10への無償アップデートは現在も継続中だが、8.1のサポートが終了以後も続く可能性は低いのではないか。とりあえずは、アップグレードが可能な条件(CPU、メモリ、HDD容量)がマイクロソフトのサイトに記されているので、それを確認して、可能なら早めのアップグレードがお薦めである。ただし、デスクトップと違い、ノートの部品交換には制約がある。以前ならノートでもHDD、メモリだけでなくCPUの交換も普通に行えた。デスクトップは一昨年の夏に購入し、昨年夏にSDDを256Gから512Gのものに交換し、元のものは外付けのケースに入れて利用している。
訂正:昨年、トランプによるファーウェイ攻撃が発生した直後に、オークションでファーウェイのノートPCを購入していた。マイクロソフトのものより高解像度で、バッテリーで10時間程度利用でき、島根、鳥取県立図書館ではこれを携帯・利用している。なかなかの優れものである。

2020年3月24日 (火)

河上郷と都治郷2

 天文二〇年(一五五一)に大内義隆が家臣の陶晴隆により滅ぼされると、大内氏方であった石東地域の国人は生き残りを図ってそれぞれが独自の動きを展開する。小笠原氏は天文一〇年代半ばまでは尼子氏との関係が強かったが、尼子氏が西部への軍事活動に消極的だsったことから、大内氏方との関係を強化した。福屋氏も吉田攻の時点までは尼子氏との関係を強めていたが、その失敗後は大内氏方となっていた。それが義隆の滅亡後、小笠原氏は陶氏方となり、福屋氏は新宮党を通じて尼子氏との関係強化を目指して小笠原氏と対立した。それが天文二三年一一月には尼子晴久により新宮党が討滅され、天文二四年一〇月には厳島合戦で毛利氏が陶氏を破ったことで、状況は一変した。福屋氏は毛利氏と結び、小笠原氏は尼子氏と結んだ。弘治二年には尼子氏が一旦は毛利氏方を破って石見銀山を掌握し、小笠原氏も毛利氏との戦いによる苦境を脱したが、間もなく防長制圧した毛利氏が本格的に石見国への軍事活動を展開した。これを受けて永禄二年には再び晴久が小笠原氏救援の出兵を行ったが、今回は、福屋氏が守る松山城で江川の渡河を阻まれて、本国に撤退したため、孤立した小笠原氏は毛利氏に降伏した。ただ、この間、福屋氏は軍事情報を提供して尼子氏との関係も維持していたことが小笠原氏の降伏により露顕した。一方、河本郷を放棄後、毛利氏方として軍功を積んだ小笠原氏に、福屋氏領の一部が与えられた。
 以上が、永禄四年(一五六一)五月時点の河上氏旧領をめぐる福屋氏と小笠原氏対立の背景であった。清泰寺など旧河上領の人々が福屋氏に対して反発する背景は前述の通りであった。そうした中、福屋氏は状況を打開するため、再び尼子氏と結んだが、将軍による毛利・尼子氏間の和談が進んでいたため、尼子義久本人は動かず、福屋氏は石見国内の本拠を失った(このあたりは過去のブログの記事の記憶を辿って記述したので、やや不安定)。都治郷と河上郷の範囲と福屋、小笠原氏との関係を述べた。
付記:『島根の合戦』編集時には自分以外の執筆者の原稿を事前に読んだが、縄張り図はあっても関係地図がないため、非常に理解しずらいとの感想を持った。今回も参照したが、やはり同じことを思った。当方担当分は必要な関係系図、地図はすべてソフトで自作して添付した。また、ブログの文中の東と西が逆になっていた部分を修正した。

 

河上郷と都治郷1

 以前からよくわからないのが両郷の領域である。『島根県の地名』では中世の河上郷に続いて、江川東岸の近世の市村、上下河戸村を記すので、ここまでが河上郷で、下都治以東を都治郷と考えているのだろう。ただ、そうした場合、貞応二年石見国惣田数注文で、都治郷が二四町三反大、河上郷が一四町五反三〇〇歩という両郷の田数と齟齬している。河上郷にはこれに江川西岸の領域が加わる。河上氏から独立した都治氏は都治郷とその東側の波積郷を支配したとされるが、波積は田数注文に田数八丁五反半とある大家庄内稲富に比定されている。貞和七年正月 日岩田彦三郎軍忠状には、没落する高師泰軍を追って江川を渡り、河上城を退治したとある。河上氏の本拠であった河上城が江川東岸の松山城のことであるのは確実であるので、上下河戸村までが都治郷で、市村から河上郷ではなかったか。『都治根元』には「河上ハ、田原、久佐・永屋・佐野・太田・千金六人也」とある。久佐・永屋・佐野は那賀郡西部の河上氏領であるので、江川を挟んだ太田・八神・千金・市村・田野が河上郷であろう。田数では都治郷に及ばないが、水運の中心地帯である。ただし、那賀郡西部を併せると、田数でも都治氏領(都治郷+波積郷)を上回る。
 大永二年(一五二二)に尼子氏が初の石見国への大規模な軍事行動を展開した時点で、都治氏は福屋氏の支配下にあった。福屋氏領である大家西郷から西隣の都治氏領に勢力を拡大したのであろう。そして福屋氏と尼子氏の交渉の結果、都治氏は当主が切腹し滅亡の危機に瀕した。ただし、その遺児が母の実家である河上氏のもとで生まれ、育てられていた。享禄三年(一五三〇)には尼子経久の子興久が、経久に不満を持つ国人をまとめて父に反旗を翻した。そうした中、石東は塩冶興久の勢力圏となり、福屋氏が興久に都治氏跡の継承を求めたが、それを知った本家河上氏もまた興久に使いを送り、結果的には都治遺児による家の再興がみとめられた。その後大内氏と尼子氏の対立の中、天文一〇年代前半には河上氏が滅亡し、今度は河上郷に福屋氏の勢力が及んだ。過去の経緯から同郷内では福屋氏への反発は強く、それが福屋氏と対立する小笠原氏と結ぶことになったのではないか。
 

 

古文書学の重要性

 倉恒康一氏「国立国会図書館所蔵の石見小笠原氏関係史料について」(十六世紀史論叢11号、2019.3)を読んだ。国会図書館所蔵の関係文書はいくつか知られていたが、この文書は井上寛司氏作成の文書目録にも掲載されていない、新出史料である。検索してみるとヒットし閲覧可能で、「小笠原長雄消息 永禄四年」の貼り紙が付されている。昭和二三年(一九四八)五月二八日に寄贈されたものである。本来は宛名の「清泰寺」の文書であろう。井上氏を中心に小笠原氏関係史料集の編纂が進められているので、その一連の調査で確認されたものであろう(ただし、井上氏から提供された史料集の文書目録には未掲載であり、その後の確認か)。
 今回の史料は永禄四年付年号のある五月二〇日付書状で、同日の小笠原長雄感状も残されている(清水家文書)。小笠原氏が毛利氏方として尼子氏方の山吹城を攻撃した事で戦果があったとして、清泰寺に一寺を進めるので、今後も協力することを求めているが、その使者としては一族の長秋があたっている。感状の方は一族の大蔵丞に宛てて、従僕の軍功を賞しているが、「長朝忠義」についても触れている。「長」の字を付けていることからこれも一族の人物で、あるいは大蔵丞の子源五郎であろうか。
 問題はここからで、倉垣氏が「横道助十郎」という存在しない人物に言及していることである。感状がそうだったように、宛所で苗字が省略されるのは小笠原氏一族であり、「助十郎」も家臣横道氏ではない。この点については、「尼子氏の石見国進出をめぐって-石見銀山、吉川氏・小笠原氏との関係を中心に-」(『山陰史談』29、2000)で、島根県史以来の通説が誤りであることを根拠を示して指摘している。記事の題名を「古文書学の重要性」としたのはそのためであった。前にも述べたが、若い内に中世前期についても学んでおくと、戦国期の研究にも役立つ。
 以前、益田庄内の乙吉氏が益田本郷地頭を訴えたことにより、六波羅探題が「益田本郷地頭代」に説明を求めた史料に基づき、益田氏がこの時点では益田本郷を没収されていたことを明らかにした(1992年島根県中世史研究会報告「益田氏惣領制の再検討」)が、そこでは文書を残したのは利益を得る乙吉氏であることも確認していた。ところがその後の研究で、文書を残したのは益田氏で、益田氏が益田本郷地頭代であるという古文書学を無視した説が出され、西田氏がはじめて益田氏について述べた論文でもその説が踏襲されていた。校正段階の原稿をいただいたので、西田氏に誤りであることを伝えたが、氏の返事は「通説だから」というものであった(現在では誤りであることを確認済み)。
 通説とは多くの研究者が支持し、且つ根拠がある説である。源義親が義家の嫡子で、その子が為義であるという説は多くの研究者が採用していたが、明白な誤りで、為義は義家の嫡子義忠の同母弟であった。杉橋隆夫氏「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」で説かれた、北条時政の後妻牧の方が、池禅尼の弟宗親の娘であることも、現在でも多くの専門家が支持しているが、根拠無き誤りである。禅尼の弟宗親は諸陵助に補任され(『兵範記』)てまもなく死亡し、兄宗長のように国司となることはなかった。『日本歴史』2020年1月号の特集記事では、野口華世氏が「崇德天皇叔父子説」について、近年の研究が否定的であるにもかかわらず、現在でも歴史書に書かれている(例えば坂井孝一氏『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱』 (中公新書)でも、院政を評価するため述べられているが、「自分できちんと調べて書きましょう」という助言しかできない)ことを述べている。すべては論者が自分の責任で確認しなければならない。

 

2020年3月23日 (月)

嘉禎四年の出雲・隠岐守護3

 今回、嘉禎四年の時点で泰清が両国守護であることが明らかになったことで、政義が出家する前に、出雲守護が泰清に交代していたことになる。佐藤氏は出家を延応元年以前としていたが、仁治四年正月の将軍頼経が安達亭を訪れた際には政義が調度の準備にあたっており、且つ同年七月に定められた将軍が臨時に訪問する際に御供となる御家人の結番には泰清のみで政義はみえない。政義の出家は仁治四年の事件であった。『鏡』建長二年一二月二九日条には、政義の出家により、その所領が泰清に与えられたが、その後、政義に子息等が誕生したことで、出家を後悔し、旧領の一部の返還を求めたが許されなかったことが記されている。ここでは守護の交代には言及されてはいない。
 泰清の父義清の没年も問題となる。延応元年一二月二九日条に火災で家が焼失した「佐々木隠岐入道」については義清であるが、宝治元年一二月二九日に京都大番役勤仕の結番が定められた際の一三番の「佐々木隠岐前司」は「佐々木隠岐次郎左衛門尉」(泰清)の誤りであろう。義清が生存していれば九〇才前であり、且つ、守護を子に譲ってから一五年以上が経過しており考えられないことである。ここに泰清が含まれていないのも考えられない。泰清が隠岐守に補任された可能性もあるが、前後の史料を見る限り、入る余地がなく適当な時期が見つからない。
 以上、前置きが大半となったが、今回の嘉禎四年初めのリストにより守護研究はいくつか変更を余儀なくされる。伊藤氏の研究で、守護不設置の国や守護代とは異なる代行・名代との概念が提起されたことで、複雑化したかに見えたが、守護不設置の国数やその時期が大幅に縮小されることは確実である。また、守護代も複数いたことを前提とすれば、代行・名代の概念も不要になろう。確かに、守護正員と代官との関係で守護の代官宛の発給文書の書式が異なってくることに注目されたことは成果であったが、混乱を招いたのも確かであった。また、今回の例も、その時点で確認された史料を使って論理的に導き出された説が、実際とは違うことがめずらしくないことを示した。一次史料を重視するのはよいが、二次史料であっても信頼性を確認しつつ使っていく必要がある。一方、武家系図では常識だが、公家系図でも女性や姻族の情報は残りにくい。ただし、母親の情報は残る場合があるので、それを丹念につなぎ合わせて系図を復元すると、かなり有効な情報となり、従来の男系のみ重視した研究が誤りであったことが判明することも多い。

嘉禎四年の出雲・隠岐守護2

 葛西時清と六角泰綱のいずれの可能性が高いかは微妙であるが、近江守護がなお父近江入道信綱であることからすると、葛西時清の可能性が高いと思われる。『鏡』でも葛西氏は「壱岐‥‥」と表記するのに対して(ただし、この時期はという限定が付く。壱岐守には三浦光平、宍戸家周など「国司一覧」にはみえない関東御家人が何人も補任されており、区別のための工夫がされている)、その後壱岐守となった六角泰綱は「壱岐大夫判官」(これが頼経上洛時の表記)「佐々木壱岐前司」「近江壱岐前司」と葛西氏との違いがわかるように表記されている。嘉禎四年初の守護のリストにも「出羽判官」(中条家平)がみえているように、泰綱ならば「壱岐左衛門」ではなく「壱岐判官」と記した可能性が大きい。いずれにせよ、複数の論者が検討することで、研究の精度は高まるので、渡邊論文を知った際の木下氏の驚きは大きかったであろうが、両論文(報告)があるのは歓迎すべきである。
 佐々木泰清の第三子頼泰以下の兄弟の多くは葛西清親の娘を母としている。泰清の父義清と清親の父清重は同世代(応保元年の生まれか)であり、承久の乱後も幕府で活躍している。佐々木泰清は安貞二年(一二二八)年には「隠岐次郎左衛門尉」とみえ、建暦元年(一二一一)前後の生まれであろうが(兄政義は承元二年=一二〇八生)、その妻で多くの子をなした清親の娘は頼泰以下の出生年から承久の乱前後の生まれで、葛西時清は清重の孫=清親の子で、泰清の妻の兄弟であろう。
 前置きがなお続いているが、嘉禎四年の石見守護は伊東大和前司祐時であり、西田氏論文で課題として残っていた前任の相馬胤綱からの交代時期に関するデータが得られた。因幡守護は海老名左衛門大夫忠行であるが、伯耆守護金持兵衛太郎の具体的人名の比定はなされていない。父兵衛尉(承久の乱の注文作成に当たった)の跡を継承した子であろうが、宝治合戦で三浦氏方となったことで、その後の系譜が不透明になっったためである。
 ようやく出雲・隠岐であるが、「隠岐次郎入道」とあり、両者とも留保を付けた比定となった。渡邊氏はとりあえず「二階堂基行(持明院基盛の祖父)ヵ」とし、木下氏は「佐々木義清」を第一候補とした。正解は両者が次点以下とした佐々木泰清で、「隠岐次郎左衛門」(リストには複数の「左衛門尉」がいるが、すべて「尉」を欠いている)であったのを筆写の際に誤ったのだろう。そのためには義清の情報整理が必要である。☆「隠岐五郎入道」の誤記で義清に修正した。実質的には政義・泰清が守護であったが、形式上は生存している義清であった。
 『鏡』にも筆写の際の誤りがあり、それが原因で混乱が生じている。佐藤進一氏は天福元年(一二三三)に出雲守護が義清の嫡子政義に交代していることが判明するとしたが、別稿で述べたように、泰清が隠岐守護であることが確認できるのは、初めて隠岐国に入部した貞永元年(一二三二)八月比(都万院四至堺注文写)である。嫡子政義が両国守護を譲られ、次いで政義の無断出家により弟泰清が継承したとの佐藤説に対して、出雲守護は嫡子政義、隠岐守護は庶子泰清に譲られたことを明らかにした。後鳥羽院が隠岐で死亡した延応元年の隠岐守護が泰清であったことは『隆祐集』(隆祐は『新古今』の編者の一人で、出雲大社領家であった藤原家隆の子)で確認されていた。

 

嘉禎四年の出雲・隠岐守護1

 たまたま県立図書館で「古文書学研究」88号を手に取ると木下竜馬氏「新出鎌倉幕府法令集についての一考察」が目に入り、のぞいててみた。『中世法制史料集』に収録されていない式目追加が新たに発見されたとのことであった。個々の法令については今後の課題として、注目したのは一三世紀半ばの全国の守護名のリストが含まれていることであった。次いで巻末の追記をみて驚かされた。この新出史料を紹介した別の報告が「史学雑誌」128編9号に掲載されているとのことである。それは渡邊正男氏「丹波篠山市教育委員会所蔵「貞永式目追加」」であった。近年は史料の画像データの公開が進んでおり、閲覧する中で注目すべき史料に出くわすことはあろう。木下氏は2019年4月からは史料編纂所に勤務しており、渡邊氏は職場の同僚・先輩であった。たたたま、投稿した雑誌の刊行時期の違いで渡邊氏の論考が先に出たようだ。木下氏は東大大学院の修士課程(日本史)終了後、国立国会図書館に勤務していたが、母校で慣れ親しんだ編纂所に転職したようである。
 先ず問題となるのが守護のリストがいつの時期のものかであるが、渡邊氏が嘉禎から暦仁(一二三〇年代後半)頃のものとしたのに対して、木下氏はずばり、嘉禎四年(一二三八)の将軍頼経の上洛に際して、各国に負担をさせるために作成されたリストがもととなったと述べている。古文書学研究は最新号なので借りることはできない。旧号である史学雑誌を借りて、家で検討してみたが、木下氏と同様、将軍上洛期のものとの結論を得た。わかりやすいのが、河内守護「備前守殿」に比定できる大仏朝直で、嘉禎三年九月一五日に備前守に補任され、翌四年四月一六日には武蔵守に遷任している。備後・出羽両国守護「長井左衛門大夫」=泰秀は嘉禎四年閏二月一五日には甲斐守に補任されており、リストはこれ以前のものである。守護のほとんどは頼経の上洛に従った御家人の中にその名を見いだすことができる。本日は自己の検討を踏まえて図書館で木下氏の論文の当該記述、とりわけ守護の比定を確認した。両稿とも史料紹介が中心であり、とりわけ渡邊氏の論考にはその性格が強いが、木下氏は一歩踏み込んで検討しており、それが年代比定の精度にもあらわれている。
 中には比定が困難な人物もいるが、両氏の比定が明確に異なったのは、備前守護「壱岐左衛門」であった。なお以下で出典名を明記しないものは『吾妻鏡』が出典である。渡邊氏は嘉禎四年二月二八日条にみえる「壱岐三郎左衛門尉時清」と同一人物ヵとした。渡邊氏は時清の苗字までは確認されなかったが、『吾妻鏡』で検索すると、時清は葛西氏で、その父については清重とするものと、その子清親とする系図がある。これに対して木下氏は、嘉禎三年六月二三日に「近江大夫判官」とみえ(伊藤邦彦氏『鎌倉幕府守護制度の研究』によると検非違使補任は嘉禎二年一一月)、同年一二月二五日に壱岐守に補任された佐々木泰綱であるとした。泰綱は承久の乱で近江佐々木氏広綱が没落した跡をうけた広綱の弟信綱の嫡子(六角氏)である。承久の乱後の備前守護については、後鳥羽院の子頼仁親王を備前児島に護送した佐々木(加地)信実であったとの佐藤進一氏の説に対して、文永元年に備前守護に見任している長井氏(配流された後鳥羽とその子の監視を担当)が承久の乱後の守護ではなかったかとの説を当ブログで示したが、そうではなかったようだ。備前国は幕府知行国とされたので、その意味では有力御家人が守護であれば問題はないということか。なお、乱の直後に信実が補任された可能性は残されている。

 

 

2020年3月22日 (日)

三月の近況から

 新型コロナウィルスの問題は情報がないこともあって先は読めない状況か。中国がダントツで多かったはずが、そうではないことが明らかになった。日本についても少ないと言われるが、中国(場所により違うが)と日本に共通しているのは宗教的集会があまりないことであろう。日本よりはるかにすばやく対応した韓国で患者が増えたのも宗教的集会が媒介となっていた。イランでの増加も当初はその理由が理解できなかったが、同様の理由であろう。宗教心が弱いことは、良いとも悪いともいえる問題だ。宗教心が経済格差に対する安全装置となることがある。今の日本では苦しい立場になると、他の国にはあるセーフティネットがないため、ならくの底まで落ちかねない状況だ。
 一月前に鳥取県立図書館に行こうとしたら、丁度耐震工事で長期休館に入ったところであった。それが一七日から開館したので、一九日に行った。道路がよくなったとはいっても片道二時間は大変だ。とりあえず、島根には所蔵されていない史料集と個人の論文集を閲覧し、後者はいくつか複写をした。複数の著者を集めた論文集は著作権の関係で、個々の半分までしか複写できないので、県立を通して貸し出しをうけるしかない。
 島根県立図書館の職員の話では、開館している県立図書館は七、八館ということだったが、感染状況に応じて対応すれば、多くの図書館は開館可能と思われる。あくまでも三つの条件をすべて満たすと感染の危険度が増すのであり、一つでもあてはまらず、且つ注意していればほとんど問題はないはずである。鳥取では、四人掛けのテーブルで閲覧する形(島根では一人用のテーブル)であるが、四脚の椅子が二つ除かれ、対角に座るようになっていた。利用者でマスクを着用している人は少ないが、本来は、自分が原因となることを防止するためのマスクであり、他人からの感染には意味がない。ただし、準備して携帯することは必要である。
 館内でのWifiの利用は、島根より制約が多いので、念のため携帯用の器具を持って行ったが、なぜか館内では電波が受信できなかった。その後、家や島根県立では問題なく利用できたのに。館内備え付けのパソコンの利用が制限(一回一時間、実際、順番待ちの人がいた)されるのは理解できるが、フリースポットが利用者が多くて支障がでる状況にはないので、島根のようにパスワードを確認して自由に利用できるのがよい。ただし、島根ではなぜかスマホの利用ができなかったので、必要な場合には携帯器具を持って行っている。
 鳥取では館内で自分のパソコンを利用する際には窓口に申し出て、指定された座席(テーブルが二つなので本来の定員は八席ヵ)で利用する。その上でインターネットを利用する際は別の手続きが必要で、一回二時間という制約もある。また電源は自分で用意するようになっている。手続きは必要だが、フリースポットの定員はなくても良い。島根では閲覧室のコンセントに自分のパソコンをつないでいる人をよくみる。コンセントは資料を撮影する人用に用意されている。以前は、県外へ資料の撮影に行く際は、手土産を持って行った。論理的ではないが、電源を含めて対応していただくことへのお礼であった。

2020年3月20日 (金)

山名義理について2

 本日、『醍醐寺文書』で貞治六年の桃井直信の花押を確認した。正平一三年の九年後のものであるが、同一人物のものとみることができる。ただし、正平一一年の内田文書は「修理権大夫」と署名しており、この後、南朝から修理大夫に補任されたことになる。続いて『山陰山名氏』を確認したが、これは市川氏編による過去の関係論文を収録した論文集であった。氏の論文では「安芸守護山名氏の分国支配と地域社会」(「史学研究」79、2013)を確認した。「貞治~応永年間の芸石政治史」を執筆した際に、未見であったので少し気になっていた。ただし、飯分徹氏の論文「応永の安芸国人一揆の再検討」(「史観」70、2014)以前の論文であり、岸田氏と同様、山名満氏の安芸守護補任を応永一〇年(一四〇三)としている。これが飯分氏の論文により応永一一年の誤りであることが論証された。
 市川氏の論文には見慣れない文書が引用されていた。年未詳四月二六日常煕(山名時煕)書状(大日古文書・小早川家証文三一八)であり、小早川竹原殿(弘景)に対して、安芸国が御料所となり、守護常煕に預け下されたことと、将軍から御尋があるので当知行の支証を帯して六月中に出帯せよとの命令が出たことを受けて、六月中に参洛すべきことを伝えている。この文書を田中淳子氏が室町幕府-守護体制の変容をテーマとする論文の中で、応永一〇年(前述のように一一年の誤り)に山名満氏が安芸守護に補任された際のものではないかとし、市川氏が同意して説明を加えている。応永一一年に、安芸国人に対して当知行新本所領等の支証を八月五日までに代官に出帯させるよう命じている(福原文書)。年次が一年違い、出帯する月も違い、さらには後者では上洛せよとは述べられていないにもかかわらず。市川氏(田中氏も)は苦しい解釈で整合性を確保しようとしているが、所詮不自然な考えでしかない。
 四月二六日文書の年次に関する通説は承知していないが、これは正長二年(一四二九)のものである。小早川弘景は応永三四年(一四二七)一一月一〇日に嫡男太郎四郎盛景に所領を譲っているが、その二年前の応永三二年九月一六日に将軍義持が安堵を行っている。年次が前後しているのは、一旦安堵された後に譲状を変更したことになる。次いで、応永三五年に義持が病死し、籤で選ばれた同母弟義教が還俗して将軍となった。これが、小早川弘景に支証提出が求められた背景であり、四月二六日文書は正長二(永享元)年のものである。弘景が上洛期限が過ぎた七月二〇日に再度譲状を作成し(この時点では出家して陽満)、一〇月二八日に義教が御判御教書で安堵し、一一月八日に常煕が施行している。応永三四年の譲状にあった安芸国高屋保が消え、後家女子分に関する内容が付け加わっている。小早川家証文で四月二六日書状の前にあるのは応永三二年の大内徳雄(盛見)預状で、後に続くのは永享四年に比定されている義教御内書である。田中、市川氏の説には無理があり、成り立たないことは明白である。永享元年中には常煕が安芸守護であることが確認されるので、四月二六日の直前に補任され、国内の将軍御料所の扱いを委ねられたのではないか。それに伴い奉公衆でもある小早川氏に支証の提出と、それに基づく義教による安堵がなされた。

山名義理について1

 以前、何の根拠もなく正平七年閏二月四日右衛門尉高義寄進状の高義が山名高義に比定されていたことを述べた。昨日、久しぶりに鳥取県立図書館(耐震工事により二月半ばから休館)に行き、いくつかの論文集と史料集をみたが、市川裕士氏「南北朝動乱と山名氏」(同氏『室町幕府の地方支配と地域権力』、2017)の中でも、山名高義との誤りが踏襲されていた。山名氏の専論であるのに、肝心な点の確認がなされていないことに驚かされた。その後刊行された同氏の『山陰山名氏』(2018)は未見であるが、どうであろうか。
 同論文で市川氏は正平一二年七月一三日修理大夫某書下(萩閥周布)の発給者も山名義理に比定している。確かに萩閥には肩に「山名義理也」と記されているが、比定が誤っている例も珍しくなく、確認が必要である。幸い翌一三年六月一三日修理大夫軍勢催促状(久利文書)が残っており、花押が確認出来る。同文書には端裏に「大路谷□継」(大日本史料によるが、山口県史では「季ヵ」継とする)とあるが、山口県史では発給者を桃井直信としている。正平一一年一〇月六日修理大夫某感状(永田秘録所収内田家文書)も残っており、そこには花押影が記されているようなので、これが根拠であろうか。直信は一時期、足利直冬と行動を共にしていたので、恐らくは正しいと思われるが、「端裏書」の意味は気にかかるところである。幕府方に復帰した直信が越中守護であった際の貞治六年に比定できる九月二三日直信書状(醍醐寺文書)で直信の花押が確認できるはずである。編纂所では大日本古文書シリーズの醍醐寺文書を公開しているが、なぜか巻末の花押一覧が除かれており、今日のところで島根県立図書館で確認したい。
 話を戻すと、修理大夫某が山名義理でないことは確実であるが、市川氏は確認せずに利用しているのである。山名義理の花押については、編纂所「大日本史料7編人名カードデータベース」で検索すると確認できるが、その初見である応安七年一一月二四日のもの(「修理権大夫(花押)」、八坂神社文書)を含めて、久利文書の花押とは異なっている。またその官職は「修理権大夫」である(系図にもそうある)。佐藤進一氏『室町幕府守護制度の研究』を参照すると、貞治四年二月五日に美作守護であった義理は宛所に「山名弾正少弼殿」とみえ、永和二年七月七日の時点では「修理権大夫」と署判して守護代入沢氏に命令している。
 市川氏の論文では、山名氏の家臣となった大葦氏(出雲国出身とする)や土屋氏(丹後国の在地勢力とする)についても言及しているが、太田亮氏『姓氏家系大辞典』のみを論拠にしており、実際の史料に即した確認という作業がなされていない。厳しい評価であるが、山名氏専論としての条件を欠いているとしか言いようがない。それは市川氏の問題でもあるが、指導教官の責任も大きい。

2020年3月18日 (水)

富田庄と重栖庄の領家

 平等院領富田庄と法成寺領宇賀庄・重栖庄については九条家所蔵の摂籙渡庄目録にみえるが、二通残る目録に関連して、桜井彦氏の研究「九条家と地域社会-二通の「御摂籙渡庄目六」から」(『書陵部紀要』64、2015)を参照して標題のテーマについて補足する。
 桜井氏により二通の成立年代について、①嘉元三年四月頃(従来不明であったが九条師教が氏長者となったことを契機に作成)と②暦応五年正月(九条道教が氏長者となり、前任の一条経通から渡されたもの)であることが示されたが、宇賀庄の領家については①②とも記載がなく、重栖庄は②にのみ「政所親俊、地頭請所、公用卅貫」と記される。富田庄は①には「式部大輔在輔卿」、②には「前右大弁三位被拝領之」とある。記載がないものについては検討が必要だが、準備がないので、得分を氏寺・氏神や家司ではなく氏長者本人が得ていた可能性を指摘する程度にしておく。
 重栖庄領家親俊は、東北院領河内国輪田庄の領家としてみえる「有官別当親俊」と同一人物であろうが、後者について桜井氏は勧修寺流吉田氏の傍流冷泉親俊に比定している。吉田資経の子は為経(正二位中納言)、同母弟経俊(正二位中納言)と異母弟高経(正三位非参議)が公卿となったが、為経は四七才で出家し、その半月後に死亡している。経俊が公卿となったのは、為経が死亡した二年後で、四三才、高経が公卿となったのは六八才であった。
 為経の嫡子経長は三九才で参議となり、正二位大納言にまで進んでいる。その異母弟である四男経頼が冷泉家を名乗る。経頼の母は平棟基の娘で、弘安九年に参議となり、正二位権中納言にまで進んでいる。経頼と祇園執行盛晴の娘との間に生まれたのが頼定(従二位権中納言)で、その子定親(従三位参議)が重栖庄領家親俊の父である。定親の娘は九条経教(関白二条道平の子で、関白九条道教の養子となる。従一位関白左大臣)の妻となり、教嗣(正二位右大臣)を生んでいる。こうした関係を背景に、親俊は九条家の政所となり、重栖庄や輪田庄の領家になったのだろう。重栖庄の地頭重栖氏は佐々木泰清の五男茂清の子宗茂を祖としている。
 富田庄の嘉元三年(一三〇五)時の領家は菅原在輔(正二位非参議)で、学問の家菅原(唐橋)在公(従三位非参議)の子である。これに対して暦応五年の領家「前右大弁三位」は桜井氏が比定したように、中御門為方の曾孫為治(正三位権中納言)である。為方(正二位権中納言)とその嫡子為行(正二位権中納言)までは公卿に進んだが、為治の父為宗(為行子)は早世したためか公卿とはなっておらず、為治は祖父為行の養子となっている。為治は祖父為行が四〇才時に誕生した孫であるが、暦応三年七月十九日に参議となったが、翌年七月二三日には母の死により服解となり、その後間もなく、本座に復しているが、観応二年四月一六日に権中納言に補任されるまでは「前参議」であった。右大弁補任は暦応元年一二月一二日であり、同二年四月一八日に皇太后宮亮から春宮亮に遷るとともに右大弁を去っている。目録では「前右大弁」であった。為治の曾祖父為方と親俊の祖父頼定が従兄弟であり、ともに藤原為隆の孫経房の子孫であった。為隆は摂関家家司であり、その子孫も摂関家と深いつながりを維持していた。菅原在輔は九条師教のもとでの領家であり、中御門為治は一条経通のもとでの領家であった。当然、氏長者の交替により領家も交替することが一般的であった。以上、出雲・隠岐の摂籙渡庄の領家について確認した。

 

2020年3月 8日 (日)

承久の乱後の出雲・隠岐国司

 この点について、両国守護佐々木義清との関連で再度確認する。
 出雲国は、朝廷=守貞親王(後高倉院)と幕府(頼朝)の両方との関係が深い持明院家行が知行国主となったことは前述の通りである。京方の武士が多かった出雲国の混乱に、幕府と連携しつつ対処できるのはこれしかないという人事であった。当初はその子家定が国守に起用された可能性が高いことも述べた。家定は幕府にも祗候し、二階堂基行の娘との間に生まれたのが持明院少将基盛(文永八年の長海本庄地頭)であった。次いで、嘉禄元年正月に出雲守護佐々木義清が国守に起用されたが、嘉禄二年二月一七日に家行が死亡したことにより、義清は一年余で退任した。しかし、その直後の三月一一日には隠岐守に補任された。隠岐守は承久の乱の前後を通じて二階堂行村等幕府関係者が国守であった可能性が高いが、行村の子が基行である。
 以前の記事では、義清が家行の後任二条定輔のもとでも出雲守であったかの記述をしたが、国守は兼任できないので修正する。ただし、退任後も出雲国衙と出雲守護所の関係は継続したと思われる。安貞二年五月日藤原光清家政所下文の署判者「前隠岐守源朝臣」が義清であったことを述べたように、隠岐守も一年前後で退任しているが、隠岐国衙と隠岐守護所の関係も継続したと考えられる。それを示すのが、宝治二年四月二五日佐々木泰清袖判下文であり、田所義綱に隠岐国船所の沙汰を相伝に任せて宛行っている(村上家文書)。
 持明院家行の死亡後、出雲国知行国主に起用されたのは一二歳年長(六四歳)の二条定輔であった。彼について補足すると、その姉妹三人(藤原親信の娘)が出雲国知行国主藤原朝方の子朝定・朝経兄弟の妻となっている。朝経の子朝俊は弓馬・相撲を芸とし、父定輔が知行国主であった常陸国の介(親王任国であったため、公家の最高位は介であった)を務め、退任後は兵部大輔、右兵衛佐として後鳥羽院の近臣となり、承久の乱でも京方となり戦死している。朝俊の子には朝宣と朝時がみえ、それぞれ常陸介、出雲守の尻付がある(『尊卑分脈』)。定輔は甥朝俊退任後も常陸国知行国主の地位にあり、朝俊の子朝宣を常陸介に起用したと思われる(これは承久の乱の前)。一方、乱の直後に恐懼に処せられた定輔は間もなく復活し、出雲国知行国主となった。その際、国守に朝俊の子朝時を起用したと思われる。朝時は出雲守藤原朝経の孫であった。
 以上、守護佐々木義清に関連して修正・補足を加えた。

2020年3月 4日 (水)

田原庄と多紀庄の相傳2

 話を戻すと、八月二五日の政所とは九条家ではなく三条家のものであるが、公房が公卿になる前であり、父実房の家司藤原朝房一人が署判する異例な形となった。西谷氏が有房の女子としている「中納言典侍」とは有房の父師行の晩年の子である瑞子であり、これ以降に出家したことがわかる。文治三年九月一八日に高倉天皇第三皇女で伊勢斎宮であった潔子内親王が伊勢群行した際に「女房中納言典侍陪膳」とみえ、斎宮女房となっていた。前述のように、高倉天皇第二皇女で賀茂祭院となった範子内親王の仮御所を提供していたことが想起される。
 問題は中納言典侍瑞子と公房の関係であるが、『平家物語』では「阿波内侍」とも呼ばれる瑞子の父を信西入道とするものとその子貞憲とするものがあるというが、『玉葉』の記事により前者であることは確実である。母は後白河天皇の乳母であった藤原朝子とされるが、信西と朝子の子達の生年は一一四〇年±五年である。本ブロクでは瑞子の生年を平治の乱前後としたが、その母の生年は朝子の子達と矛盾しない。そうすると、母の同母兄弟脩範の子範能は瑞子の従兄弟となる。その範能の子修子が公房との間に有子(安喜門院)を生んでいるが、その誕生は建永二年(一二〇七)年で、建久四年の一三年後である。ただし、範能の子範海が公房の養子に入っている。範能の生年は不明だが、仁安二年(一一六七)正月に叙爵しており、従姉妹である瑞子より一〇歳程度年長(一一五〇年頃の誕生)であろう。範能は建久三年一〇月二六日に大宰大弐を辞任した。出家こそその四年後だが、建久二年一〇月に辞状を提出していた。何が言いたいかというと、よくあるバターンであるが、晩年の子である範海と修子を三条公房に委ねたのではないか。その代償が瑞子からの多紀庄一方の譲与であった。成長した修子が有子を産んだ時点で公房は四一歳であった。瑞子から公房に多紀庄が譲られる背景としては、以上のことぐらいしか指摘できないが、公房の母が経宗の娘で、大炊御門頼実の姉妹であったことも影響したと思われる。頼実は一一五五年の生まれで、その姉妹が公房を産んだのが一一七九年であることから、両者は年の近い同母兄弟姉妹であったと思われる。
 瑞子領の内、播磨国田原庄は、瑞子の義理の兄弟である有通の嫡子有教に譲られ、丹波国多紀庄一方(泉村=北方)は瑞子の母方と関係が深い三条公房に譲られた。最終的には両方とも九条家領となったが、その経過は文書の残り方が違うように、異なっていた。西谷氏の論文では田原庄の碑文には言及されていなかった。この碑文により、田原庄が安喜門院領から九条家領になったことが証明できる。
 なお、「九条家文書」は活字となっているが、県立図書館が所蔵していないため、未見であった。それが運命ではないが、三月三日から史料編纂所のデータベースで宮内庁書陵部所蔵の資料の内、調査済みのものが公開された。早速「Hi-CAT Plus」をクリックして「九条家文書」で検索してもヒットしない。「九条家」で検索するとその所蔵史料が表示されるが、その中には公開された史料目録のPDF版の中で、九条家文書のみ含まれておらず、一瞬、落胆したが、もしやと思い、ユニオンカタログで当該文書を検索することとした。これまでは編纂所に来所して所定のパソコンで閲覧するしかなかったものが、自宅のPCで画像が表示されるようになったのである。活字本でみるか、写真でみるかでは得られる文書の情報が格段に違ってくる。蛇足であるが、付け加えた。

田原庄と多紀庄の相傳1

 西谷氏の論文の複写が届いたので、コメントを加えたい。丹波国多紀庄を三条公房に譲ったのは「中納言典侍」だった。建久四年(一一九四)八月一三日八条院庁下文で相続が安堵され、それを受けて八月二五日には政所下文が出されている。当然、三条公房家政所下文とすべきであるが、公房が建久六年七月に蔵人頭、一一月に従三位に叙せられ公卿となる前である。父実房は左大臣であったが、当該文書は「政所下」としながら、奥に「遠江守藤原朝臣」が署判するのみの異例な形である。
 『鎌倉遺文』と『兵庫県史』史料編中世では「九条家政所下文」、『九条家文書(図書寮叢刊)』では「関白九条家政所下文」としている(編纂所の日本古文書ユニオンカタログで「多紀庄」で検索)。大日本史料データベースではヒットしないので、未収録と思われる。それならば、花押カードデータベースで「遠江守」で検索すると、当該文書とともに建久三年二月日後白河院庁下文(九条家文書)の署判者「前遠江守藤原朝臣(為頼)」と「遠江守藤原朝臣(行房)」がヒットした。当該文書の「遠江守藤原朝臣」については朝房と記している。
 為頼で検索すると、文治二年五月二四日と五月日の後白河院庁下文がヒットし、判官代として署判している「民部権大輔」と花押は同一である。一方、行房も二通の文書に判官代として署判している「摂津守藤原朝臣」と花押が一致する。行房は元暦元年四月二日に摂津守に補任され(『吉記』)、建久元年六月一九日の時点でも見任していた(『定長卿記』、ただし「国司一覧」による)が、建久二年四月日後白河院庁下文では「前摂津守藤原朝臣」と署判している。同文書は写で花押の確認はできないが、同一人物であろう。為頼が遠江守であった時期を特定する史料は管見では未確認であるが、行房は摂津守退任後、少しの間をあけて遠江守に補任されたことがわかる。遠江守はながらく甲斐源氏安田義定が守護と兼任していた。建久元年正月二六日に一旦は下総守に遷任したが、翌二年三月六日に還任していた。『吾妻鏡』建久三年一一月二十五日条には、永福寺供養で将軍の後ろに供奉した人々の中に「遠江守義定」がみえるが、実際には三月以前には藤原行房に交代していたことになる。その後、翌四年一一月二八日には義定の長子越後守義資が前日の永福寺薬師堂供養の際に女房聴聞所に艶書を投げたことにより梟首され、父義定も縁坐により一二月五日には所領を収公されている。さらに同五年八月一九日には反逆を企てたとして義定本人が梟首されている。
 藤原朝房は頼朝が征夷大将軍に補任された建久三年七月一二日の除目で陸奥守から遠江守に遷任しており、同八年一一月一四日にも遠江守藤原朝房が五節舞姫参入を勤めており、四年八月一三日の花押が朝房のものであることは確実である。遠江守は安田義定→藤原行房→藤原朝房と交代している。朝房の史料を検索すると、三条実房の日記『愚昧記』安元二年八月二五日条の建春門院七七日忌の記事に「蔵人朝房」がみえるのが初見である。治承元年三月二九日に実房が鞍馬寺に参詣した際に同行した中にも「朝房」がみえる。遠江守退任後の動向は不明である(少納言朝房、宮内少輔朝房、中宮権大進朝房とみえるのはいずれも別人ヵ)。朝房は藤原忠平の子師尹に始まる小一条流朝仲の子あるが、系図にも遠江以外の受領補任歴は記載されておらず、母などの情報も記されていない。

 

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