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2020年2月11日 (火)

院分国か近臣知行国か1

 ようやく菊池紳一氏「後白河院政期における知行国についての一考察(一)(二)(三)」を通読した。複写原稿は字が小さく読みにくかったが、デジタル化してパソコンの画面で拡大して読むことができた。誰も敬遠しがちなテーマに関する貴重な成果ではあるが、前にも述べたように、上島氏と同様、ファジーな知行国制に公式を当てはめようとして、説明の随所に矛盾が出てしまっている。
 院政期の知行国については五味文彦氏の研究があるが、院分国・女院分国をどのように理解するかという課題が残されている。菊池紳一氏は院(女院)分国とは院(女院)の知行国であり、近臣などの知行国との間に違いはないとする。院分国であることの明証がある例は希であるが、院分国と院近臣の知行国との間には違いがあるのだろうか。本ブログでは承安四年正月に後白河院の寵臣藤原能盛が出雲守に補任された時点で、出雲国は院分国となったとの説を示した。その際に国守に補任された人物が後に公卿となった場合は『公卿補任』にその経歴が記載され、「院分」の注記があることで、院分国である事が確認できるが、能盛は公卿にはならなかったため、確認できない。
 菊池氏は「考察(二)」で保元元年九月八日に德大寺公能の子で一〇才の実守が美作守に補任されたことについて、公能が永暦二年八月一一日に死亡したにもかかわらず、実守がその後も在任したことから、美作国は公能が知行国として給与されたものではあるまい、としている。その前段で三条家の知行国について、父実行より先に死亡した子の公教・公行にその所見がないのは、家長実行が知行国主であったからとしている。そのことを踏まえれば、公能の死後、知行国は新たに德大寺家の家長となった嫡子実定が継承したとすべきであろう。弟実守は一五才であり、二三才ながら前年七月二四日に中納言に昇進していた実定は十分に国務を担え、知行国主の資格があるのである。菊池氏は実守が補任時には実能が在世中であるとして、この時点で公能が知行国主とはなりえないと述べるのみである。このあたりに氏の詰めの甘さを感じる。

 

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