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2020年2月22日 (土)

播磨国田原庄の相承3

 そこで思い出したのが五味氏の論文「東大寺浄土寺の背景」(同氏『院政期社会の研究』)である。そこでは、東大寺大勧進重源が関係した安元二年(一一七六)高野山延寿院鐘銘から「為僧照静・僧聖慶・源時房・尼妙法兼法界衆生也」が引用され、重源が関係者の菩提を弔ったものだとされる。聖慶と時房は源師仲の子であり、五味氏は最初の照静を師行に比定することも十分可能だとする。そうすると尼妙法を時房の妻に比定することも可能である。その場合、亡夫領を相続して、銘文作成までに死亡したことになる。
 師行の嫡子有房は、一旦、源有仁(輔仁親王の子、1103~1147)の養子となったとされる。有房の母である藤原清兼(後述の清隆の叔父忠清の子で、その姉妹が源義朝の母)の娘については「大蔵卿源師行妾、有房母」(『分脈』)とある。一方で、清兼の兄弟行俊は待賢門院蔵人であるが、その妻は花園左府(有仁)女房とある。また、清兼の子惟清には「左大臣(有仁)勾当」と記されている。こうしたことが、有房が有仁の養子に入った背景であった。
 師行の子としては、「時盛」がいる。これも五味氏によるが、当方が確認できるのは応保二年(一一六二)正月二七日に源時盛が周防守に補任されており、それに対応するのが『周防国吏務代々過現名帳』にみえる源蔵人時盛と大蔵卿入道という点である。師行は久安五年(一一四九)一〇月に大蔵卿に補任後、ほどなく出家したが、周防国知行国主であった。この時盛が後に時房と改名したと思われる。「時盛」は有房の妻の父平忠盛との関係を思わせるが、「時房」は祖父師時と保護者となった兄有房にちなんだ名前であろう。
 有房は時盛に五年先んじて保元二年(一一五七)三月二六日に但馬守に補任されており、この場合も父師行が知行国主であったと思われ、時盛の兄であろう。一方、有房の関係者として平宗盛の養子(猶子)となった平瑞子と宗親がいる。瑞子は安元二年には高倉天皇典侍で、故師行入道女とある(『吉記』)。前述の「姫君」であろう。師行晩年の子であるがゆえに、有房の縁(妻が忠盛の娘)をたどって兄(宗親)とともに宗盛の猶子となったのだろう。宗盛は久安三年(一二四七)生であり、瑞子と宗親の誕生は永暦年間頃であろう。この時点で師行は六〇代初めである。

 

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