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2020年2月 7日 (金)

益田氏と高橋氏2

 毛利氏と高橋氏の関係に戻ると、乱終了後、毛利氏優位のもと和与が成立しており、この状態は一六世紀初めまでは維持されていた。高橋民部少輔元光と同治部少輔弘厚が毛利弘元から一字ずつを与えられている。その弘元が永正三年に三九才で死亡すると、嫡子興元が一五才で当主となったが、高橋氏の女性を妻とし、二四才となった永正一二年には嫡子幸松丸が生まれている。その三年前には安芸国人九名により一揆契状が作成されているが、そこに「毛利少輔太郎興元」と「高橋民部少輔元光」がみえる。元光が高橋氏惣領であったことと、官職の有無から興元より年長であったことがわかる。一方、永正八年九月二七日には「高橋治部少輔」(弘厚)が八月二四日の船岡山合戦の感状を将軍足利義尹から与えられており(高倉家文書)、弘厚もまた興元より年長であった。永正一二年三月二九日の備後国合戦で元光が討死すると、弘厚の子大九郎興光が元光跡を継承している。興光がすでに元服していることから、弘厚は毛利興元より一〇才以上年長であった可能性が高い。また、興光が「大九郎」と呼ばれていることから、元光の死亡前からその後継者となっていた可能性が高い。具体的方法としては元光の娘との結婚もありうる。これと両者の名前を勘案すると、元光が兄で、弟が弘厚であった可能性も高いといってよかろう。興元の妻がその姉妹であることも同様である。
 以上、質問をきっかけに再検討したが、三人が兄弟姉妹である可能性は五割以上、その父が「久光」である説は第一位だが五割未満との見解に変わりはなかったことになる。ただし、益田氏と高橋氏の関係については情報が十分ではなく、今回、加筆・修正した。これに対して、命千代を元光に比定した説の可能性は限りなくゼロに近く、なぜこのような説が生まれ、それを批判する人がいなかったのか不可思議である。石見国については、一五世紀初めまでは関連史料の分析を完了しているが、それ以降についてはなおまだら状態であり、『合戦』の原稿もバージョンアップしていく余地が残されている。安芸国についての検討は、石見国と直接関係ある部分のみに留まっている。今回、その作業を行うことができた。とはいえ、ひさしぶりにこのテーマについて考えたこともあり、頭の切り替えが十分できたか不安である。
 毛利氏と高橋氏の関係は、興元と子幸松丸が二代続けて早世したことと、武田氏と結んだ出雲国の尼子氏の勢力が安芸国に及んだことで変化する。今回はここまでとしたい。

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