koewokiku(HPへ)

« 院分国ヵ近臣知行国ヵ3 | トップページ | 源有房をめぐって1 »

2020年2月14日 (金)

院分国ヵ近臣知行国ヵ4

 候補となる人物としては、安元六年(一一八〇=治承四ヵ)に授法された醍醐寺大法師聖観について「前隠岐守源季康子」とある源季康ぐらいである(血脈類集記)。季康は村上源氏季時の子で、関係史料はほとんどないが、季時の父宗光が長治元年(一一〇四)正月に備後守に補任されている(『為房卿記』。『分脈』の尻付には「左京大夫」)。宗光は俊房(1035-1121)の子であるが、兄弟師俊(1080-1142)は四六才時の子であるゆえか、叔父師忠の養子となり、右少弁→右中弁→左中弁→蔵人頭右大弁→左大弁→権中納言と昇進する一方で、藤原忠実の家司となり、その知行国の受領(丹波守、尾張守)を歴任している。丹波守となったのは三三才の時で、三年後に尾張守に遷任した直後に右少弁に補任されている。宗光の兄弟には醍醐寺座主勝覚(1086-1116、1057年生)と実運(明海、1156-1160、1105年生)がみえる(巽昌子「醍醐寺の相続にみる院家。寺家の関係の変化」、お茶の水史学五九号)。実運と『分脈』に「出雲守」(『長秋記』永久元年八月六日条に「出雲権守」とみえる)と尻付のある忠時の母親は肥後守藤原重房の娘であるが、重房は『為房卿記』寛治六年(一〇九二)二月六日条に「前肥後守藤原実房」とみえる。実運は兄勝覚のもとに入室しているが、勝覚が座主となったのは三〇才時であったが、実運は五二才時であった。実運は一時、勧修寺の寛信に師事し、其の後醍醐寺に帰ったためであった。いずれにせよ、俊房の子勝覚と実運には四八才もの年齢差があったことになる。季康の祖父宗光は師俊と実運の間に生まれた可能性が高い。
 聖観の生年は不明だが。同時期に授法した熱田大宮司家範忠の子任暁は三三才、覚伝は三七才で授法している(平雅行「熱田大宮司家の寛伝僧都と源頼朝」、『人間文化研究』三八)。聖観が三五才で授法したとすれば久安二年(一一四六)の生まれとなる。その父源季康が隠岐守に補任された候補時期としては、保元の乱後に補任された源雅範の前から可能だが、雅範は祖父宗光の従兄弟=俊房の弟顕房の子雅兼を父とし、世代が一つ上である。残るのは、中原宗家の前か、源仲綱と藤原惟頼の間となる。以上のように、源季康が隠岐守に補任された年次の確定には史料が不足しているが、季康が村上源氏季時の子であることは間違いない。

 

« 院分国ヵ近臣知行国ヵ3 | トップページ | 源有房をめぐって1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 院分国ヵ近臣知行国ヵ3 | トップページ | 源有房をめぐって1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ