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2020年2月11日 (火)

院分国か近臣知行国か2

 「考察(三)」では、藤原忠隆が国守であった丹後(正しくは丹波。氏の論文には誤植が大変目立つ)国の知行国主は父基隆であるとの五味氏の見解を、基隆が申任じたものではなく院の意思であり、忠隆が伊予守に遷任した直後に基隆が出家しても、忠隆の地位に変更がなかったことから、基隆は父として後見していただけだとする。忠隆が「丹波守」に補任されたのは一〇才、従五位下の時であり、伊予守に補任されたのは二七才、正四位下であった。知行国の国守は年齢、官職において国守の条件を満たしていないことがままみられる。丹波守忠隆はこれに当てはまるが、伊予守忠隆は年齢面でも官職でも、父の知行国でなくても補任されるものである。
 氏は忠隆が子基成を申任じた陸奥国と、大蔵卿を辞して子家頼を申任じた長門国は忠隆の知行国である可能性が高いとしつつ、久安六年七月に忠隆が死亡しても停任されていないことから、知行国とするには検討の余地があるとする。康治二年末に二〇代前半と思われる基成が陸奥守に補任されているが、久安五年には藤原兼忠が陸奥守に見任しており、基成は一旦陸奥守を辞している。次いで基成は二度目の陸奥守となったが、久安六年八月一三日の父忠隆の死亡により喪に服し、一一月三〇日に復任している。この時点で基成は三〇才前後であり、二度目の補任の時点では父忠隆の知行国ではなかった。一方、家頼の同母兄信頼ですら父忠隆の死亡時に一八才であり、国務を担うには難があり、武蔵守であった信頼が長門国知行国主の地位を継承することも不可能である。ただし、信頼と家頼には母方の従兄弟藤原光頼の支援が可能であった。光頼は顕頼の嫡子で、従四位上右中弁の地位にあり、翌七年正月には正四位に叙せられている。藤原顕隆の娘を母とする嫡子隆教(ただし、永治二年に死亡)、藤原季孝の娘を母とする庶兄基成に対して、顕頼の娘を母とする両人は「頼」をその名に付けているように、母方の支援下にあった。
 前述の吉田経房の例と同じである。源有賢の娘を母とする兄信方が、父光房が知行国主であった伊豆国の国守であったが、早世したため、藤原俊忠の娘を母とする一〇才の弟経房が伊豆守となった。当然、父光房が知行国主である。ところが、三年後には過労により権右中弁であった父光房が死亡した。それにもかかわらず一三才の経房が伊豆守であり続けたのは、妻の実家である平範家の支援が可能であったからである。範家は光房の跡をうけて左少弁から権右中弁に昇進している。範家の母は光房の一五才年上の姉であり、範家は二八才年上の経房の従兄弟でもあった。さらに、範家の背後には妻の父藤原清隆の存在があった。このような支援が可能であったため、経房は伊豆守であり続けることが可能となった。このように知行国制はファジーな制度であった。

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