koewokiku(HPへ)

« 源光隆の任官事情3 | トップページ | 佐々木義清と淡輪庄2 »

2020年2月24日 (月)

播磨国田原庄の相承10

 有教は「大炊御門少将有教朝臣」(嘉禄二年一一月五節出仕殿上人、『民経記』)「大炊御門中将」(『明月記』寛喜元年八月一六日条外)と呼ばれている。『明月記』寛喜二年六月二八日条には定家が「大炊御門中将」から、行幸の供奉を怠ったため、怠状の提出を求められたとの話を聞いている。その状の筆頭には「右近権中将源有教」、末尾には「藤原朝臣頼氏」(父は源頼朝の同母妹坊門姫の子高能)の名が記されており、大炊御門中将=有教であることがわかる。源師行が時房に譲った所領にも「大炊御門地内」があった。そのため「大炊御門~」と呼ばれたのだろう.
   嘉禎三年(一二三七)一二月二六日に安嘉門院新御所への御移徒が行われた際に、公卿は女院庁別当である右大将(大炊御門)家嗣、権中納言藤原為家(定家の子)、左大弁(吉田)為経が供奉したが、事前には了解していたはずの土御門中納言通忠(別当)、大炊御門二位師経(家嗣の父)、兵部卿有教が急に変更を申し入れ、混乱が生じている。この事件から、源有教と大炊御門師経の緊密な関係がうかがわれる(『経俊卿記』)。
 有教はながらく非参議兵部卿であったが、宝治二年(一二四八)正月に従二位に叙せられたのに続いて、建長四年(一二五二)一二月四日には大蔵卿に補任された。これは前任者正三位参議源雅具が権中納言に昇進したことにより、その後任となったものである。また有教が建長六年八月六日に死亡すると、従二位前参議平惟忠が大蔵卿に補任された。当時の大蔵卿は参議経験者が補任されるポストであった。
 三条公房の娘有子=安喜門院の母は藤原範能の娘修子で、娘が立后されたことに伴い従二位に叙せられている。修子が公房の妾となったことで、その弟範海が公房の養子に入っている。範能は伯耆国久永御厨領家であり、その室には藤原実教の娘(母に関する情報は無いが、光隆の娘である可能性あり。また実教は平業房の子教成を養子としているが、教成は山科氏の祖で、その子孫が後に光隆が領家であった杵築大社領の由緒を主張し、支配を認められている。教成の母は丹後局で業房の死後は後白河院との間に覲子内親王=宣陽門院を産んでいる)や平業房の娘(嫡子有能の母)がいた。範能の父脩範は信西入道と藤原兼永娘(後白河院乳母)の間に生まれており、修子は範子と同様、信西入道の曾孫で、有子もその縁者であった。
追記、嘉禎三年末の御移徒については、大日本史料五編一一冊の読みと、同三四冊(源通忠の関連史料として掲載、写本名を明記)が異なり、前者の「家嗣」が後者では「教嗣」となっている。確認すると、藤原教嗣は存在するが、公卿にはなっていない。また、編纂所古記録フルテキストデータベースで検索すると「家嗣」と読んでおり、発行年次が新しい三四冊が誤植であったことがわかった。宮内庁書陵部所蔵の写本の画像を国文学研究資料館のHPで確認したが、「家嗣」であった。当方も、当初「安喜門院」の史料と勘違いして混乱した。

 

« 源光隆の任官事情3 | トップページ | 佐々木義清と淡輪庄2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 源光隆の任官事情3 | トップページ | 佐々木義清と淡輪庄2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ