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2020年2月23日 (日)

源光隆の任官事情1

 大治五年(一一三〇)一〇月二七日の夕に俄に小除目があり、九才(死亡記事によれば七才)の藤原光隆が元服と同時に叙爵し、出雲守に補任されたことについては、これまでも何度か述べたが、その背景が『長秋記』九月一日条に述べられていたことにようやく気づいたので、確認したい。
 光隆は源能俊の子であったが、能俊の年齢を勘案して、藤原基隆の養子となった。そのため「藤原光隆」と記されていた。九月一日に源師時が待賢門院のもとを訪問したところ、女房から基隆の書状について相談があった。基隆は播磨、伊予、讃岐守という近臣有力者の指定席を歴任しつつ、白河院、女院の御願寺造営に対して成功を積んできていた。そうした中、修理大夫補任を望んでいた。大治二年一月の除目で、藤原長実が辞任し、嫡子顕盛が修理大夫に補任されていた。顕盛は白河院政期に、時に鳥羽院の要望すら握り潰したことがあったため、鳥羽院政開始の翌大治五年年四月、鳥羽院は顕盛を修理大夫から解任した。それが六月二〇日夜の除目で顕盛が修理大夫に復帰したため、問題は解決したかにみえていた。そうした中での基隆の希望であり、それを知った長実は事ある毎に怨み言を述べていた。基隆は現任の播磨守を弟である讃岐守家保と相博し、自らは修理大夫となり、外孫を讃岐守に任じ、知行国主となることを望んでいた。長実は九月九日には妻一人が死亡しており(年末にも別の妻が死亡)、心穏やかならざらぬ状態であった。
 一〇月一日、出雲守であった基隆の庶子経隆が朝覲行幸に際しての勧賞で正五位下に叙せられた。次いで五日の除目で、基隆は播磨守のまま修理大夫を兼ねることになり、顕盛は尾張守はそのままであったが、公卿への足がかりとなるポストを再び失った。今回の除目の内容について、中御門宗忠は『中右記』の中で、「多くは以て道理也」と評価しているが、復帰したばかりの修理大夫の交代には疑問を述べている。白河院没後の待賢門院庁別当の中心と位置づけられていたが、長承三年正月二五日に顕盛は三五才で死亡した。末娘得子の行く末を案じていた長実はその五ヶ月前に五九才で死亡していた。
 得子が鳥羽院の寵愛を受けるようになるのは顕盛が死亡した長承三年春とされ、八月の長実の一周忌にその後家尼のもとを訪れた師時は、得子が寵愛を受けているのは家門の面目を施すものだが、その一方で、得子の兄弟姉妹は近習から外され、国務の一時停止処分を受けたり、宅地・荘園などの私財を没収されていることを歎いている。その中で、故顕盛とともに鳥羽院近臣藤原顕頼も財産を没収されているとの解釈が、角田文衞氏によりなされ、定説となっているが、前述のように史料の誤読である。そこでは故顕盛の蔵を近臣顕頼が摘発し、政府に納めたにもかかわらず、没収されたことが記されているだけである。この背景に、得子に対する母女院の想いがあり、それを代弁した崇德天皇が鳥羽院に処分を求めたとの解釈がなされているが、誤りである。鳥羽院としては、白河院近臣として我が物顔に振る舞っていた長実の子達に強い不満を持っており、得子を寵愛することで、彼らが外戚として増長することをさけるために処分を行ったものである。そのため、待賢門院の兄弟が西園寺氏、德大寺氏(いずれも同母兄)、三条氏(異母兄)として摂関家に次ぐ地位を長きに亘って占めたのに対して、得子の兄弟についてはそうなっていない。一方、実務官僚の代表である顕頼の子孫は葉室家として有力な家として長きにわたり存続している。

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