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2020年2月23日 (日)

源光隆の任官事情3

 康治二年(一一四三)七月一一日に新御所への渡御が行われたが、わずか二月半後の九月三〇日に室町三条の御所は焼失し、統子内親王は兄崇德院の三条西洞院御所に渡御し、その後、新御所造営が行われた。光隆は安芸守の二期八年の任期が終了する前であった久安元年(一一四五)七月二五日に二二才で死亡し(『本朝世紀』。任官時の『中右記』の記事に基づけば二四才)、その直後の八月二二日に待賢門院は四五才の生涯を閉じている。その四日前には葉室顕頼が丹波国福貴御園を崇德天皇の御願寺成勝寺に寄進しており、顕頼は鳥羽院と崇德院の両方に対して貢献していたことがわかるが、佐伯智広氏はすでに死亡している藤原忠教が寄進したと誤ってしまった。それは氏が角田文衞氏による『長秋記』の誤読=顕頼も手のひらを返したように得子に接近したことを怒った崇德天皇の抗議を受けて、財産を没収されたとする誤りを踏襲したからである。藤原清隆にしても、成勝寺造営の責任者であり、供養時には勧賞を受けている。これに対して鳥羽院は有能な顕頼と清隆が得子(美福門院)のために貢献することを期待して二人を優遇したが、二人は両女院に配慮している。それは白河院を重視し、鳥羽院を軽視したため、職を解かれた長実の子達の没落を反面教師としているからでもある。
 基隆の意図は、修理大夫と公卿の座を得た上で、外孫光隆を讃岐守として知行国主となるというものであったが、讃岐守には出雲守であった庶子経隆が遷任し、出雲国は待賢門院の分国とされた。女院の御願寺円勝寺は保護者である白河院が近臣を使って造営したが、法金剛院は時間をかけて寺としての整備が継続して続けられた。そのための分国の設定であった。一方、治天の君となった鳥羽院にとっては分国は必要不可欠ではなく、白河院政時からの継続であった紀伊国の任期が終了すると、一院の分国は設定されなくなる。近臣を手足のように使い、膨大な荘園を集積しつつあったのが鳥羽院であった。一方で、鳥羽院は待賢門院だけでなく、摂関家から入内した泰子と寵愛する得子についても、称号の有無とは無関係に分国を設定している。これを院号がないので分国ではなく、普通の知行国とするのは院政の正しい理解の障害となるものでしかない。また、法金剛院の造営が一段落すると、待賢門院分国の一部を娘である前斎院統子内親王の分国に移行させている。
 複数の主人に貢献するのは、顕頼、清隆に限ったものではなく、女院の判官代であった高階家行や藤原宗長(池御前の弟)、さらには崇德院の最側近日野資憲ですら、一方では、摂関家・高陽院や鳥羽院への奉仕を行い、院司に補任されている。それはごく普通の行為であった。

 

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