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2020年2月21日 (金)

源有房をめぐって1

 源有房は一二世紀半ばから末にかけてその活動が知られる公家で、歌集『有房集』で知られる。国文学からの研究が中心であったが、五味文彦氏「東大寺浄土堂の背景」では東大寺再建を行った大勧進重源との関係が明らかにされた。有房の父母、兄弟、子弟については情報が錯綜しており、可能な範囲で整理したい。本来はその父である源師行について検討していたが、その前提となる情報の整理が不可欠なことを実感させられたためである。この一週間はこの問題で悪戦苦闘をよぎなくされ、記事のアップに到らなかった。
 有房の生没年は不詳であるが、国文学者による「天承・長承頃(一二三〇年代前半)の誕生か」との推定は、有房の叙位・任官の状況に適合している。その父は村上源氏師時=『長秋記』の記主の子(二男)師行であるが、後三条天皇の孫で皇位継承者とされた輔仁親王の子源有仁の養子となったとされる(『尊卑分脈』)。父師行ではなく、有仁と関係する名前であるのはそのためだろう。有仁の子では上西門院女房となった西御方(後に上西門院の養女となった高松院の女房)と御匣殿(後に、上西門院女房であった滋子=建春門院の女房)が確認できる。有房もこれらの娘の一人との結婚を前提として養子となったのだろうが、その叙爵前に有仁が死亡した(一一四七年)ことと、有仁娘との間に子が生まれなかったことにより、実家に戻ったのであろうか。
 管見では有房の初見史料は仁平三年三月一日に藤原忠実の妾播磨局の知足院堂の供養が行われた際の扈従者として「宗長」(宗兼の子、池禅尼の弟ヵ)とともに「有房」がみえる。推定年齢は二〇代前半で、叙爵していた可能性は高いが、任官が確認できるのは保元二年三月二六日の但馬守補任である(『兵範記』)。応保二年正月二七日には弟と思われる時盛が周防守に補任されているが、父師行が知行国主であったことが確認でき(五味文彦「院政期知行国の変遷と分布」)、有房の場合も同様であったと思われる。
 時盛は仁安二年七月三日に「周防前司」(『兵範記』)とみえるのが終見であり、その後の任官・叙位は確認できない。承安元年(一一七一)一〇月二九日僧(師行)置文には、所領を嫡子有房、庶子散位時房等に分割して譲ったが、大夫(時房)が死亡したことで、時房妻に一期分として譲り、その後は「姫君」(師行晩年時の娘ヵ)に与えることが述べられ、その扱いを有房が委ねられている(九条家文書)。時盛が後に時房と改名したと思われ、兄有房の庇護下に入ったためであろう。

 

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