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2020年2月21日 (金)

源有房をめぐって2

 「姫君」とは安元二年(一一七六)四月二二日に内侍典侍としてみえる平瑞子(『吉記』)であろう。そこには師行入道の娘で、平宗盛の猶子と記されている。この時点の宗盛は三〇才であり、その猶子となった瑞子が師行の晩年の子であることは確実である。有房の二男有通は平忠盛の娘を母として、仁安三年(一一六八)正月に叙爵している(『公卿補任』)。瑞子は甥有通と同世代で、宗盛の猶子となり、治承三年(一一七九)一一月一九日に阿波守に補任された宗親も瑞子の同世代の兄であろう。東大寺浄土堂は阿波国(弟宗親が阿波守であった時期であろう)に建立されたものを、後に重源が東大寺に移したもので、その際に本来の丈六仏九体に加えて六条殿尼御前が願主となって一体が追加されたというが、尼御前=瑞子である。瑞子は高倉天皇の没後は建礼門院(中宮徳子)に仕えたが、その一方で、治承三年三月二六日に高倉天皇の娘範子親王(母は藤原成範の娘小督)の斎院御所が火災で焼け出された際には、「左少将有房妹典侍宅」(『山槐記』)が仮の御所として使用されている。『玉葉』には「左少将有房朝臣宅」とあり、年の離れた瑞子は兄宅に同居していたのであろう。
 その後、瑞子は兄時房妻の一期分とされた播磨国田原庄領家(預所)職等を譲られたと思われ、それが丈六仏一体を造立することを可能とした。一方、兄とされる宗親は世俗を離れ、修行者として活動している。五味氏論文では触れられなかったが、その後の瑞子に関しては『明月記』嘉禄二年(一二二五)九月一一日条の中で述べられている(編纂所HPで所蔵する徳大寺家本が閲覧でき、国会図書館デジタルの国書刊行会本と対照)。当時の醍醐座主の母尼が有通卿姉新阿弥陀仏尼の房にいることを聞いた藤原定家がこの尼に関する情報を述べている。『明月記』には歌人でもあった有房が度々登場する。瑞子の母は信西入道の子で、證(澄ヵ)憲法印の妹であった。系図では信西の娘に「少将有房室」と記されているが、瑞子は宗盛の猶子となる一方、有房宅に同居し、実質的に養女となっていた。平家滅亡後は名実ともに有房の養女となったがため、本来の「師行室」が「有房室」に書き換えられたのであろう。瑞子が「阿波内侍」と同一人物であるとの説は国文学者宮地崇邦氏『阿波内侍素性』で出され、水原一氏により支持された。ただし、瑞子は『吉記』にあるように、師行入道の娘で、有房の妹であったが、年が離れていることもあって、その養女となった。検討の過程では混迷を極めたが、ようやく、すっきりしたと実感できた。
付記:阿波内侍については『平家物語』(覚一本)中の「大原御幸」で登場する老尼が信西入道の娘阿波内侍であると素性を明かしたとされるが、『明月記』にあるように、その母が娘であり、本人は孫である。その生年は平治の乱前後であり、文治二年院の御幸の時点では三〇才前で、嘉禄二年の時点で六〇代半ばである。「中納言典侍」の「中納言」とは信西の子で平治の乱後復活し安元二年に権中納言(寿永二年には中納言、文治三年死亡)となっていた成範との関係であろう。成範の孫娘である斎院範子内親王が、典侍の兄源有房宅を臨時の御所としたのはそのためであった。生まれてすぐに平治の乱で母方の関係者が没落し、父師行も高齢であったため、兄有房が仲介して宗盛の猶子となったのであろう。

 

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