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2020年2月22日 (土)

播磨国田原庄の相承6

 ようやく、師行の子有房と公房が結びついてきた。清隆には経宗の妻となった娘もいた。公房の母は経宗の娘であった。経宗と清隆の娘の間に生まれた女性が実房との間に公房を産んだ可能性もあるが、女性の場合、その母に関する情報は残っていない事が多い。ただ、有房の養父は源有仁であり、有仁が養女としたのが経実の娘=経宗の三才年上の同母姉懿子であった。懿子は雅仁親王(後白河)の妃となり、一七才であった雅仁の第一皇子守仁親王(二条天皇)を産んだが、その直後に死亡した。有房は有仁の養女懿子を介して、経宗の兄弟であった。その経宗の娘が産んだのが公房であった。
 前述のように田原庄預所(領家)職は源師行→子時房→時房妻→師行姫君=瑞子に譲られ、『明月記』の記事にあるように、阿波内侍瑞子は嘉禄二年の九月一一日時点でも、推定六〇代後半で田原庄領家として健在であったが、兄有房はすでに死亡しており、その子有通に代替わりしていた。『公卿補任』によると有通は当初は「盛房」と名乗っていた。父有房と母方の祖父忠盛にちなむものであったが、平家の滅亡を契機に改名したと思われる。
 有通は仁安三年(一一六八)正月一二日に「高松院合爵」で叙爵している。その後しばらく任官・叙位はなかったが、文治五年三月一六日の石清水八幡宮臨時祭には使者藤原定輔の陪従として「藤原有通」とみえ(石清水八幡宮記録)、これ以前に改名していた。建仁三年(一二〇三)九月三〇日には母(忠盛の娘)の死による暇服から右近少将に復任している(『補任』)。生年は不明だが、系図には瑞子を姉と記すものがある。実質的には兄有房の養女でもあり、叔母瑞子と有通は同世代であったと思われる。
 その後は高松院と建春門院が安元二年に死亡したこともあって有通(盛房)の任官・叙位は停滞し、有通改名後の文治五年九月一〇日に侍従に叙せられている。その後も建久九年一二月九日に父有房も務めた右近少将に補任され、建仁二年正月従四位下、承元元年正月に従四位上、同二年正月に権中将に転じ、同三年正月正四位下、同四年正月内蔵頭補任を経て、同年七月二一日に従三位公卿(非参議)と順調に昇進した。翌建暦元年(一二一一)五月一四日に出家し、『明月記』建保元年(一二一三)一二月八日条に「去比入道有通卿逝去云々」とある。推定年齢は五〇代前半である。父の養女であった瑞子に先立って死亡した。

 

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