koewokiku(HPへ)

« 佐々木吉田氏系図2 | トップページ | 益田氏と高橋氏1 »

2020年2月 2日 (日)

佐々木吉田氏系図3

 厳秀の子太郎義基は厳秀の前妻の実家河内氏の養子に入り、次郎義久(同母弟)、三郎義宗(母不明)は佐々木義清の養子に入り、四郎泰秀(母は後妻布部氏)が吉田庄を継承し、宗泰(母不明)は湯氏を称したとある。子達は処罰を免れたが、兄達よりも乱との関わりが薄かった四郎泰秀が継承を認められた。泰秀は正治二年(一二〇〇)の生まれで、乱の時点では二二才であった。前述の義清の嫡子政義は一四才であり、厳秀の子達が年上であった。
 ただ、泰秀の立場も微妙で、系図では隠岐国へ配流される後鳥羽院の供奉を行ったが、父厳秀との関係で出雲から隠岐への渡海は警戒され許されなかったとする。母が布部氏の娘であることは前述の通りであるが、泰秀の妻も出雲国能義神社神官物部慶俊の娘であり、その間に嫡子秀信が生まれている。その後、泰秀は「加地筑前守重綱」の娘を後妻としたとあるが、佐々木氏系図では加地信実の嫡孫とされる筑前守実綱の誤りであろう。次いで秀信も加地左衛門尉輔房の娘を妻としたとあるが、長綱(実綱子)の子で加地庄報恩寺別当であった。
 吉田氏系図とは旧島根県史編纂の際に筆写された県立図書館所蔵謄写本で、①「備後国福山藩吉田家系図」とその②抄本(広瀬町山口幸五郎氏所蔵)、さらには吉田庄内の③「吉田八幡宮古系記写」の三冊がある。②は中世末まで写したもので、③は吉田氏が出雲国を拠点としていた一五世紀前半までを記しているが、①②に記されていない内容を含んでいる。それは吉田氏が八幡宮の祭祀にかかわった関係で情報が残ったもので、①②の影響を受けていない。例えば、厳秀が京方であったことは①②も記すが、合戦で負傷したことは③にのみ見え、それゆえに乱の直後に死亡した原因が判明する。また、泰秀が隠岐渡海を許されなかった理由と泰秀の意図についても①②にはないが、詳細に述べているし、①②で泰秀が枕木山鰐淵寺に葬られたと記すのに対して、③では枕木山に葬られたことと、鰐淵寺の鐘銘に「吉田左衛門尉泰秀入道」とみえることを分けて記している。群書類従本佐々木氏系図に収められた六郎厳秀とその子孫の系図からは想像できない内容が、吉田氏系図には記されているが、その信頼性は高いとすべきである。これがなければ、五郎義清が守護となった出雲国内に厳秀も承久の乱の恩賞として吉田庄地頭に補任された程度しか考えられないが、実際には四郎高綱と同様、鎌倉初期に地頭となり、且つ本人は承久京方となり死亡したが、その子泰秀が継承することを認められたのであった。

« 佐々木吉田氏系図2 | トップページ | 益田氏と高橋氏1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 佐々木吉田氏系図2 | トップページ | 益田氏と高橋氏1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ