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2020年2月25日 (火)

佐々木義清と淡輪庄3

 安貞二年の文書とともに伝来した天福二年五月二十日前左大臣家政所下文(朝比奈艶之助氏文書)については、官職から九条良平家政所の下文で問題ない。別当勘解由次官藤原顕嗣は兼高の子で九条家家司を務めている。これとは別に、藤原成親の同母弟盛頼(後に隆頼と改名)の孫顕嗣がいるが、こちらは盛頼が父義朝への貢献に基づき頼朝から与えられた肥前国晴気領地頭職を相伝している。
 和泉国淡輪庄は藤原公清から源資賢の娘を母とする嫡子実俊に譲られたと思われる。実俊の生年は不明であるが、家女房を母とする兄弟実隆は建仁三年(一二〇三)の生まれで、叙爵(年不明)後、貞応二年(一二二三)四月七日に二一才で侍従に補任されている。一方、実俊は建仁三年正月に皇太后(忻子)御給で叙爵し、翌元久元年(一二〇四)四月に侍従に補任されている。父公清は五才で叙爵(後白河天皇女御琮子給)し、一五才で左衛門佐に補任されている。実俊は文治末~建久初年の生まれであろうか。
 実俊と九条家の関係で注目されるのは、子公有の母が春花(華)門院女房(源定綱娘)であることである。春華門院は後鳥羽天皇の第一皇女昇子内親王で、その母中宮任子(宜秋門院)は九条兼実の娘である。定綱は九条家家司で、遠江権守であったこと、その子定親も家司であったことが確認できるが、系譜上の位置づけは確認できない。
 一方、九条良平は兼実の三男で母は藤原顕輔ないしはその子頼輔の娘である。良平は任子の異母弟である。実俊は天福元年(一二三三)正月に従三位に叙せられ公卿となったが、五年後の嘉禎三年(一二三八)一二月一八日に死亡している。四〇才後半であり、『尊卑分脈』には男子七人、女子一人が確認できるが、その子公有は祖父公清の従兄弟三条公宣、実清は西園寺公経、公世は公経の子洞院実雄の養子となっている。実俊は公卿にはなったが非参議であり、妻が仕える春華門院に寄進したのではないか。次いで女院から異母弟九条良平に譲られ、良平が自ら整備した成恩院に寄進したのであろう。建長元年には成恩院検校法印政所下文により、刑部丞橘重基が淡輪庄公文職に補任されている。

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