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2020年2月22日 (土)

播磨国田原庄の相承4

 仁平三年(一一五三)三月一日の忠実の妾である女房播磨局知足院堂供養に忠実に扈従する人々の中に「有房」がみえ(『兵範記』)、摂関家との関係も有していた。その生年は不明だが、国文学(歌人として知られる)の研究では天承・長承年間(1131-1135)頃とされる。養父有仁が死亡した久安三年の時点では一〇代半ばで、その一〇年後に但馬守に補任されたことになる。永暦元年(一一六〇)一一月二三日には、右兵衛佐実清、若狭守隆信、左少将定能(美福門院の娘高松院の乳母夫季行の子)とともに「侍従有房」が賀茂臨時祭の舞人としてみえる。歌人として前隠岐守雅範(源)朝臣がみえる(『山槐記』)。実清、隆信は美福門院分国の国守を務め、雅範は保元三年一二月一七日には美福門院御給で従四位下に叙せられ、鳥羽院から美福門院に譲られた宝荘厳院領近江国香御園の寄進者である(平治元年閏五月日宝荘厳寺領荘園注文写、東寺百合文書)。有房の父師行もまた、鳥羽・美福門院の近臣で、有房が保元三年一月六日に従五位上に叙せられたのは「師行朝臣造高松殿賞」であった。
 Wikipediaには有房が平治の乱で叔父師仲とともに藤原信頼方となったために解官されたと記されている。確かに『平治物語』には藤原成親とともに「但馬守有房」がみえるが、解官は確認できない。有房の年の離れた妹瑞子の母は信西入道の娘であり、師行・有房父子が信頼方となったとは考えられない。叔父師仲は年少時より待賢門院に近侍しており、女院判官代から鳥羽院・美福門院方に転じた信西を快く思っていなかった。なにより、保元の乱後の信西の子達の栄達で最も不利な立場に置かれたのは女院と崇德院に近い人々であった。師仲と師行・有房父子の立場は対照的であった。それゆえ、土壇場で信頼方を離脱したにもかかわらず師仲は解官され配流処分を受けた。
 有房は仁安元年(一一六六)八月二七日の除目で「左近衛権少将」に補任され(『山槐記除目部類』)、翌二年一月二七日には女御滋子(建春門院)の職事に補任されている(『兵範記』)。その妻が平忠盛の娘であったことがその背景にあった。この時点で清盛の子宗盛はようやく二〇才であり、瑞子と宗親がその養子となったのは、これ以降であろう。有房は仁安三年正月六日の除目で従四位下に叙せられ、三条実房の日記『愚昧記』同年四月一六日条では、賀茂祭の警固に衛府があたるため、「左少将有房」と会話を交わしたことと、有房が入ろうとした宣仁門が先例と違うとして、実房が西方から入るべきだと注意したが、有房が反論したことが記されている。同年八月二七日には御白河院の第五皇女惇子内親王が伊勢斎宮となり、家司と職事が定められているが、職事七人の中に「左少将有房朝臣」とともに弟である「散位時房」がみえている。

 

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