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2020年2月 7日 (金)

益田氏と高橋氏1

 『島根の合戦』中の「藤掛城合戦」について、安芸高田市の担当の方から質問が来たので、二年ぶりに考えてみた。忘れないために以下のメモを作成してみた。主に高橋元光と弘厚、さらには毛利興元との間に幸松丸を産んだ女性とその父親についてであった。
 系図の記載も様々であったが、最も可能性の高いものとして、三人は兄弟姉妹で、その父は「久光」であるとの説を採用し、記述した。とはいえ、「久光」については、他の説より可能性があるというもので、数字で示せば五割未満のものである。「某」とすればより正確かもしれないが、そのあたりは難しい。一方、三人が兄弟姉妹である点については可能性五割以上と考えていた。これ以上の細かい数字は提示できないし、しても無意味であろう。
 文明年間に高橋氏惣領大九郎を引退させ、一族の命千代が当主とされた(吉川380)。その背景は、応仁の乱で大九郎が西軍方となったことであろう。文明三年一月には幕府が安芸国で西軍方に転じた武田元綱の退治を東軍方国人に命じている。大九郎も武田氏に与同した可能性が高い。安芸国には上京して畿内での戦闘に従事していた国人もいたが、東西両軍の間で揺れ動いていた。西軍の中心である大内政弘は一四世紀後半以来、安芸国にも影響力を持っていた。命千代は文明三年初めから東軍方として安芸国内での合戦に参加していたが、毛利豊元は大内氏との関係で西軍方であった。そうした中、同三年閏八月一五日に安芸・石見の東軍方国人七名(広島県史年表PDF版には「75名」とあるが誤植であろう。公開する前にチェックがなされていないのは問題である)が命千代に武田氏討伐を促したのである(吉川381)。
 『合戦』では380を381に先行するものとして、文明三年に比定したが、毛利氏が西軍から東軍に戻った後のものであり訂正する。毛利氏は文明八年五月に当主豊元が死亡している。前年の一一月には豊元が嫡子弘元に所領を譲っており、このあたりから状況が変化してきた。同八年後半には京都でも東西両軍の和平の動きがみられ、翌九年一一月に大乱は終結した。問題は安芸国内で激しく戦ってきた国人間の関係である。乱の終結により、所領を奪われた側は返還を求めるが、奪った側は既成事実化を図る。高橋氏と毛利氏の間で和与が成立し命千代が大九郎に代わって当主となったのはこの頃であろう。
 381に益田氏がみえないのは西軍方であったからであるが、翌文明四年冬には東軍に転じ、所領の安堵を受けている(久留島典子氏論文)。文明六年一二月には幕府が命千代を含む国人六名に長野庄内の所領で益田貞兼に合力するよう命じている。これをうけ、文明八年九月一五日には命千代と兼堯・貞兼父子の間で相互扶助の契約が交わされている。高橋氏側は多数の家臣が連署しており、この時点では大九郎に代わって命千代が当主となっていた。問題は、これが永正七年三月五日高橋元光契状の冒頭に記された「祖父之時甚深之事」であるかであるが、『合戦』では命千代を元光の父とした。この点については変更の必要はない。文明八年の契約は大乱が石見国内では終結した時点のものであり、両氏の間に特筆すべき課題があったわけではない。また、『合戦』の系図に示したように、これ以前に高橋氏一族の鷲影氏(阿須那庄内に鷲影城ある。『合戦』の地図参照)が長野庄内上吉田に所領を得ていた。

 

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