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2020年2月28日 (金)

後白河院の分国1

 一院分国について、白河院政期には、本院(白河)のみならず新院(鳥羽)の分国が設定されたが、鳥羽院政期には新たな分国の設定はなくなり、新院(崇德)の分国も同様である。一時、崇德院の側近日野資憲と待賢門院判官代であった藤原宗長が国守に起用された時期の下野国を崇德の分国と考えたこともあったが、その後、両者は摂関家やその出身である高陽院とも関係を持っており、高陽院の分国との解釈に変更した。元木氏の解釈は「相変わらずの」調査不足としか評価できない。摂関家の知行国の可能性もあるが、鳥羽院政下では実質的な女院分国は院号宣下の有無に関係なく数多く認められている。その背景は御願寺造営である。一院は分国に頼ることなく造営を行い得たが、新院と女院はそうもゆかない。
 この一院分国は、子である守仁までのつなぎとされ、且つ、鳥羽院と母待賢門院から庄園をほとんど継承しなかった後白河の院政期、とりわけ、二条天皇が死亡した永万元年六月以降には一院分国が急増することになる。この点に関連して、後白河院の北面出身者が国守に起用されることが多いが、五味文彦氏は源季範(角田氏により熱田大宮司季範と誤認された。また崇德院領となった紀伊国桛田庄を公領に戻している)の例を引いて、北面出身者は自ら国務に当たることが多いとしているが、季範は鳥羽院政下の事例であり、後白河院政下では異例な国守補任が多い。
 五味氏も引用した「周防国吏務代々過現名帳」(以下では「名帳」)は編纂所影写本を見ることが可能だが、大勧進重源のもと周防国が東大寺造営料所とされた以降の記録は詳細で、国主と国守のみならず、目代まで記されている。他の造営料所の時期を含め、複数名の目代である。当時の国衙目代については定数を含めて明確な状態を記した史料はほとんどない。出雲国については、国守が交代しても、知行国主が共通な場合は目代が同じ例、さらには国主が交代しても前任の目代が継続している例もみられる。一方、杵築大社造営時には二人の目代が確認できる例もある。目代の経験・能力にもよるが、一人で職務をカバーするのは困難だと思われる。目代が複数でない場合も、それを支える部下がいなくては在庁官人をコントロールすることは容易ではない。一度だけ受領を経験し、その後は目代や庄園の預所などを兼務する有能な人物もいるが、その場合もチームで行っているのではないか。

 

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