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2020年2月 2日 (日)

佐々木吉田氏系図2

 話を吉田氏に戻すと、吉田氏は秀義の子六郎厳秀を祖とするが、その生年は義清と同じ応保元年(一一六一)である。母親が違えばありうることであるが、当時の秀義が渋谷重国へ婿入りした状況にあったことからすると、その可能性は低い。今回、吉田氏の系図により、厳秀の母も渋谷重国の娘であることが確認できた。結論を言えば、五郎義清と六郎厳秀は双子であったことになる。ただし、厳秀はその名からわかるように天台僧となった。系図そのものは一〇年ほど前に存在を知り、二〇一一年一月三一日にアップした当ブログ「出雲佐々木吉田氏について」の中で、厳秀が鎌倉初期に出雲国吉田庄地頭となり、現地の有力者布部氏の娘との間に生まれたのが文永八年結番帳にみえる「吉田四郎左衛門尉」であることを述べている。泰秀が地頭であった吉田庄は近衛家領で、出雲国では佐陀庄、出雲大社領、宇賀庄に次ぐ四番目の大規模庄園であった。『松江市史』編纂時にはそれを記した『福山藩吉田家系図』の存在を西田友広氏に伝え、氏が分担した通史編中世の中でも述べられている。ただし、そのメモにその後遭遇せず、再度確認しなければならないと思っていたが、ようやく再確認したので、この原稿を書いている。
 以前には認識していた記憶はないが、改めて読みなおすと、厳秀が承久の乱では京方となり、乱後は関わりの深い三井寺遠行坊に潜んでいたが、乱での手負いがもととなり、七月五日に死亡したことが記されており、驚かされた。佐々木氏では太郎定綱の嫡子広綱、次郎経高が京方となっており、厳秀もその経歴から京方となったと思われる。三郎盛綱の子についても、義絶されていた信実が乱の勲功で復活し、その子孫は越後国加持庄を苗字の地としていく。一方、兄に代わって嫡子となった弟盛季は建仁年間の合戦で死亡したことが記されているが、その死亡により後継者となった弟盛則の一族についてはほどんど記載がない。乱で京方となり没落した可能性が大である。承久の乱の結果、嫡子広綱に代わって定綱の庶子信綱が勲功の賞として近江守護と所領の継承を認められたが、佐々木氏惣領は出雲・隠岐守護となった義清とすべきであろう。結果的にはその子孫である塩冶高貞が謀反の疑いで討伐されたことで、信綱系の六角氏と京極氏が佐々木氏の中心として浮上した。

 

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