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2020年2月22日 (土)

播磨国田原庄の相承1

 ここのところ、『長秋記』の記主源師時の二男とされる師行領について検討していたが、暗礁に乗り上げ、立ち止まることが多かった。ある程度関係論文を読んだが、とても解明されたと納得できるレベルのものではなかった。それとともに、日記の写本の違いにも悩まされた。
 最初に後者について言及すると、近江国が忠実の知行国であったのは少なくとも久安二年一一月一四日まで遡るとの五味文彦氏の説について、菊池紳一氏が『台記』の増補史料大成本を引用して誤りだと批判していたことがあった。しかし、五味氏の論文を読むと、氏が『公卿補任』の誤りや、『台記』の活字本の誤りを正したうえで、論を進めていることがわかる。大成本『台記』についても、仁平元年二月四日条について、「禅閣」を「禅閤」(忠実)と修正し、「相伝」を「相博」に正している。とりあえず、現時点で当方ができるのは、史料編纂所の台記謄写本二つと『史料総覧』作成のための稿本をみることしかできないが、五味氏の「入道殿〈親近江吏務〉」の「親」の根拠となった写本は確認できなかった。ただし、各写本には微妙な違いがあり、菊池氏の立場なら、根拠となった写本を確認した上での批判が必要だと思う。前述(だと思うが)のように、五味氏が仁安二年閏七月日賀茂社神主等解(『兵範記』紙背文書)を根拠に、忠通の知行国播磨が基房に譲られたと説いたのに対して、『兵範記』の記主平信範は近衛家に仕えており、当該の解は当時蔵人頭権右中弁であった信範の手許にたまたま残され、その裏が日記に使用されただけであるという、歴史の専門家とは考えられない根拠(まさに寅さんの「それを言っちゃあおしめえよ」である)を述べている。これに元木泰雄氏の疑問と同じく、播磨守藤原隆親(忠隆の孫)は平忠盛の娘を母とし、清盛の甥にあたっていることも根拠に加えている。隆親については本ブログで検討したが、菊池氏の批判はいずれも的外れで、当方は五味氏の説が正しいと考える。
 前者については、とりあえず播磨国田原庄の領家職が九条家のものとなった経過についてのみ触れる。田原庄全体の問題は、別の記事を立てる。田原庄は保延七年(一一四一)に源師行が鳥羽院庁に寄進したのをうけて、鳥羽院庁下文が出された(遺文6065)。次いで承安元年(一一七一)一〇月二九日以前に、師行が庶子である散位時房に譲ったが、時房が自分に先立ち死亡したため、改めて時房の妻に一期分として譲り、その後は姫君が相伝することを記した置文を作成している。同二年二月二八日には師行の嫡子左少将有房がこれを確認しているが、そこに本来の師行譲状が引用されている(遺文6116,6117)。

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