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2020年2月28日 (金)

後白河院の分国2

 話を戻すと、「名帳」には「後白河院」が記されているが、それに対応する国守はどうであろうか。「国司代山城前司末清」「国司代壱岐前司左衛門尉延定」については、前述の専門化した目代であると想われるが、関連史料を欠いており、山城守、壱岐守に当該人物を確認できない。通説では後白河院分国周防の国守とされているのは、治承元年正月二八日に遠江守から遷任してきた藤原季能のみである。季能は美福門院近臣俊盛の子で、遠江国は俊盛の知行国であった。季能の後任の遠江守は弟盛実で、季能は二五才であった。周防守補任五ヶ月後に季能は同じく院分国讃岐の国守に遷任した。周防国はこのわずか五ヶ月のみが院分国であったのだろうか。
 周防国は久寿二年に美福門院の分国となり、国守には甥(兄長輔の子、母は藤原清隆の娘)が起用された。女院死亡後もその地位には変更がなかったが、応保二年正月に源師行の子時盛に交代した。父師行が知行国主であった。師行は前述のように、鳥羽院、美福門院の近臣であった。その後任となったのは仁安二年正月に重任を申請している季盛であるが、藤原俊盛の子である。俊盛が東山御所を造営した功に対する勧賞であった。「国司一覧」には同年正月四日に某季盛が丹後守に見任しているとする。出典である『兵範記』同日条を確認すると。東山御所への移徒について定められた中に、饗・殿上を「季盛、丹後」が担当することとなっている。それは「仙洞御移徒部類記」にも同記が引用されている。ただし、実施された一九日条をみると、丹波守藤原惟頼が担当している。誤記の原因は不明だが、永暦年間の丹波守は季盛の兄季能であり、季盛は仁安二年正月には周防守であった。
  次いで、前述の高階信章が国守に補任されたが、これも故美福門院(この時点では八条院とすべきか)系に属していた。これが嘉応二年七月に除籍されたことにより、源師行を国主とし、その嫡子有房が周防守に補任されたと思われる。次いで季能が遷任してきたが、これは後白河院が分国主であった。そしてその五ヶ月後に後白河近臣藤原能盛が出雲守から遷任してきた。出雲守への起用には建春門院御願寺最勝光院に寄進された大野庄の立券があったが、杵築大社造営が課題となったため、周防守に遷任した。能盛は後白河近臣であったため、治承三年一一月の平家のクーデターにより周防守を解官され、平範経に交代している。範経は平家一門と思われるが、系譜上の位置づけは不明である。わずか五ヶ月のみならず、その後任の藤原能盛も出雲守在任中を含めて後白河院分国とすべきである(米谷豊之祐氏は能盛在任中の周防国は引き続き院分国としている)。

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