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2020年2月22日 (土)

播磨国田原庄の相承2

 それによると、時房には八条院領播磨国田原庄だけでなく、丹波国多紀庄内泉村と屋敷地、田畠林等を譲っているが、嫡子有房の沙汰に従うことを求めている。譲状の年次は不明だが、ここでは置文と違い、姫君は登場しない。姫君が時房の娘であるならば、時房の妻に一期のみ譲る必要は無く、前の記事で述べたように、師行の晩年の娘であろう。師行は承安二年六月に死亡した(『分脈』)。七〇代前半であったと思われる。
 九条家との関係は、正応二年一二月二八日後深草上皇院宣案(九条家545(2))が初見となり、問題はその間の経緯である。兵庫県歴史博物館の学芸員前田徹氏による鎌倉後期の田原庄の研究論文があることは確認できたが、その紀要は日本史学科のある大学にしか送られていないようで、国会図書館に複写を依頼したが、同博物館の学芸員によるコラム「神積寺の板碑と播磨国田原庄―荘園を歩く(その2)」(二〇一八年七月一五日)に、前田氏の論文のエッセンスが述べられていた。前田氏は中世後期が専門のようである。
 コラムの中で前田氏は数ある説の中で、時房の妻から一人程度別の人物の手をへて三条公房に伝えられ、次いで公房から娘有子(後堀河天皇の皇后、後の安喜門院)をへて、甥(有子の姉妹と九条忠家の子)忠教に譲られ、以後九条家に相伝されたと。有子から忠教への相伝は、田原庄内に残された安喜門院と忠教を記念する石碑の内容から正しいが、前者(公房領となった点)については根拠が薄弱である。コラムの末尾に記された参考文献から、西谷正浩氏の「公家領荘園の変容―九条家領荘園の個別的検討を中心に―」(同氏『日本中世の所有構造』)がその典拠となったと思われるが、これまた前述の紀要と同じく、所蔵館は限られ、国会図書館で複写するしかなさそうである。ただし、西谷氏の学位を認定した資料が九州大学から公開されており、その概要を知る事はできる。論文そのものは『福岡大学人文論叢』29巻4号掲載されているが、大学から公開されているのは35巻以降である。
 ところが、時房の妻から公房に伝わる経路が思いつかず、暗礁に乗り上げたのである。時間は日付が変わったが寝ることもできずに考え続けた。公房は藤原忠親(『山槐記』の記主)の娘を妻とし、藤原経宗の娘を母とする。父実房は藤原清隆の娘を母とし、祖父公教は藤原顕季の娘を母としている。公房の娘有子の母については情報がない。嫡子実親については忠親の娘が母であるがゆえに、両方の祖父(実房と忠親)の一字を取った名前である。

 

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