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2020年2月 2日 (日)

佐々木吉田氏系図1

 鎌倉期の出雲守護は安達親長等一部を除けば、佐々木氏が補任された。特に承久の乱後は佐々木秀義の子五郎義清とその子孫が代々守護職を継承している。このような例は少ないが、その背景には、佐々木義清が、長井時広とともに隠岐に配流された後鳥羽院とその子雅成親王(順徳の同母弟、但馬国へ配流)、頼仁親王(備前国へ配流)の監視という重要な役割を担っていたからである。後鳥羽院は延応元年に配流先の隠岐で死亡し、佐渡へ配流された順徳も仁治三年に死亡したが、一時は実朝死後の四代将軍の有力候補となった雅成、頼仁両親王は健在であった。雅仁は順徳死亡後の寛元二年に一旦は都へ帰えされていたが、幕府内での宮騒動と並行して朝廷内で後嵯峨に代わる次期天皇に擁立せんとの風聞が立つと、その動きの中心であった九条道家(将軍九条頼経の父で、順徳の子仲恭の外叔父)が失脚されられ、親王も但馬国の配流地に戻された。雅成と頼仁はそれぞれ配流地で死亡した(建長七年、文永元年)。
 宝治元年の新日吉社小五月会流鏑馬により、長井時広の子泰重が六波羅探題北条重時に次ぐNo2、佐々木義清の子泰清がNo3の地位にあったことがわかる。正嘉元年にも、両者が探題北条時茂に次ぐ地位にあったことがわかる。時広は幕府の要職に就くことはなかったが、森幸夫氏が説く六波羅探題の整備とともに、配流者の警固がその重要な役割であった。時広が死亡した直後に嫡子泰秀が評定衆に補任されているが、父の役割を継承したのは弟泰重であった。同様に、義清から出雲守護を継承した嫡子政義は鎌倉にあり、弟で隠岐守護を継承した泰清が六波羅にあったが、政義が三浦泰村との対立で無断出家したことで、計画は見直しをせまられた。両家の第二世代の四人の中で政義のみ北条泰時の諱名を得ていないのは、泰秀より四才年長で、貞応三年の伊賀氏の乱で泰時の地位が確立する前に元服した事ぐらいしか思い浮かばない。そうだとすれば、政義は三才年長である北条政村と密接な関係を持っていたことになる。泰清は、嫡子時清を鎌倉に置いて、自らは西国を活動の中心とした。時清が引付衆を経て、父泰清が死亡した翌年の弘安六年に評定衆に補任されたのは長井泰秀のケースと同じである。

 

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