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2020年2月26日 (水)

源定綱をめぐって1

 源定綱は公清の母源雅綱の関係者であろうが、系図の上では確認できない(的外れで、後述のように源通定の子と確認できた)。実際に存在した女子の情報が系図に残っていないのはよくあることだが、男子でも子孫を含むその後の状況により情報が削除されることはままあることである。前述の備後守源成憲についても関係する情報が残っていなかった。周防守高階信章は、清章の子であろうが、系図にはみえない。清章の娘が藤原実清との間に産んだ長経は八条院分国丹後の国守として、紙背文書に関係文書が残っている。信章もその人脈で仁安三年八月に周防守に補任されたが、嘉応二年七月に摂関家家司でもあった藤原経家と院中で闘諍を起こして叙籍されている。このため、周防国知行国主経験者であった源師行の嫡子有房が国守に補任されたと思われる。以下ではとりあえず、定綱に関する情報をまとめておく。石見守護佐々木定綱とは別人の定綱がいることは、史料編纂所遠藤珠紀氏が気づき、その教示を受けた西田友広氏「中世前期の石見国と益田氏」(島根県古代文化センタ―編『石見の中世領主の盛衰と東アジア海域世界』、二〇一八年三月)で紹介された。
 遠藤氏は五味文彦氏を中心とする『明月記』研究会(現在は雑誌の刊行は休止中)のメンバーで、当該時期の記録類に精通した研究者である。西田氏論文で示された源定綱関係史料は、『明月記』正治元年六月一九日条①、同七月四日条②、同二年二月五日条③、建永元年一〇月二六日条④である。③が佐藤進一氏『鎌倉幕府守護製度の研究』で石見守護佐々木定綱と九条兼実の関係を示すものとして提示されていたが、これとは別の定綱が兼実の側近として存在することが明らかにされた。ただし、編纂所大日本史料データベースで、第四編と五編を対象に「定綱」で検索すると、より多くの情報を得ることができる。「源定綱」で検索した方が絞り込みが容易だが、その代わりに関係情報が漏れてしまうことがあり、実際の史料を確認して当該の定綱かどうかを確定しなければならない。
 現時点での初見史料は文治三年三月一六日の石清水八幡宮臨時祭で舞人の中に「侍従定家」「左衛門佐公清」とならんで「蔵人左兵衛尉定綱」がみえる(宮寺縁事抄、臨時祭六、大日本史料4-1、以下は巻数は省略し、出典は『玉葉』以外のみ表記)。両人以外にも陪従を含め九条家や近衛家の家司が複数みられる。家司の中には九条・近衛両家と関係するものは珍しくない。次いで建久元年一月三日の鳥羽天皇元服の儀式で、「三献、勧盃内蔵頭範能朝臣、瓶子蔵人定綱」とある。範能は前述のように、信西の孫で、安喜門院の祖父にあたる人物である(『愚昧別記』)、『心記』同日条には「大内只今権大納言、〈隆忠、〉一人参入、予相共見南殿御装束、右府、〈実房、〉同参入、行事蔵人一臈定綱祗候」とある。『愚昧別記』は三条実房の日記、『心記』は「伏見宮御記録天皇御元服部類記所収」とあるが、記主はネットで検索しても出てこない。編纂所所蔵柳原家記録にも別年代の『心記』が含まれているが解説はない。『別記』と表記を比較すると、本文中の「予」とは九条兼実の同母弟兼房である。

 

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