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2020年2月23日 (日)

源光隆の任官事情2

 話を戻すと、基隆の外孫として該当する人物はおらず、そこから、光隆が基隆の養子となったのは基隆の娘と源能俊の間に生まれたからではないかとの説が浮上する。もとより能俊の妻と光隆の母に関する情報は系図には残っていないが、能俊と基隆がともに白河院の有力近臣であっただけで、能俊の子光隆が基隆の養子となることはないのではないか。
 一〇月二五日、女院の御願寺法金剛院の中心となる御堂の供養が行われた。当初は二一日に予定されていたが、造営を行った基隆宅で穢れが発生する事態が生じたため、延期されていた。基隆は御堂造進賞として従三位に叙せられ、公卿となった。当然、播磨守は交代させなければならず、二日後の二七日夜に、家保を播磨守に遷任させ、讃岐守には基隆の子経隆を出雲守から遷任させた。そして空席となった出雲守に養子光隆を補任した。基隆が出雲国知行国主との解釈も可能だが、基隆が一年半後の天承二年(一一三二)三月二一日に五八才で死亡しても光隆の地位には影響がなかったことと、光隆による前斎院御所造営を補佐したのが女院庁判官代であった大舎人頭高階家行であったことから、光隆の補任当初から出雲国は女院分国であったと考えられる。光隆は基隆の後家から屋敷地の提供を受け、女院の娘前斎院統子内親王御所造営に着手したが、基隆の死後はその後家との間でトラブルが発生した。光隆が補佐役であった高階家行の娘と結婚したためで、後家は提供した敷地の返還を求め、御所造営は場所を変えて三条室町で再スタートした。また、光隆は後家との養子縁組を解消し、「源光隆」に戻っていた。実父能俊は保延三年一一月二五日に六七才で死亡するまでは健在であった。
 光隆の任国出雲では一宮杵築大社の造営が現実的な課題として浮上し、二つの事業の両立は困難であるため、二期八年の任期が終了すると、光隆は安芸守藤原光隆(知行国主は父清隆)と相博・遷任し、安芸守として前斎院御所の造営を完成させ、成功と認定された。

 

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