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2020年2月14日 (金)

院分国ヵ近臣知行国ヵ3

  本来の話題に戻すと、院分国の受領である場合と、院司受領である場合の違いとして、後者は国守本人が国務を行うのに対して、前者は、院司(院庁別当・判官)が国務に関与することがある。後者は、有力な院近臣である国守の父が知行国主である場合があり、父の死亡が国守の交代につながることが多いが、前者は原則として国守の交代はない。出雲守藤原能盛は後白河近臣であったが、出雲国務はどのように運営されたであろうか。次いで周防国に遷任しているが、前任者藤原季能(美福門院の乳母夫俊盛の子)の時点では周防国は院分国であった。また、季能の遷任先の讃岐国も院分国であった。藤原能盛が出雲守に起用された背景は何であろうか。以前、清盛の側近藤原能盛(壱岐守、安芸守)と後白河の側近能盛(出雲守、周防守)は同一人物であるという過去の説が正しいとする方からメールをいただいたが、そこでは出雲大社造営のため、安芸守時代に厳島神社造営経験のある能盛が起用されたとの説が示された。ただし、両人は別人なので、この説は成り立たない。逆に任期四年満了以前に周防守に遷任した理由が、大社造営が開始されることであったと思われる。
 能盛が初任受領として出雲守に補任されたのは承安四年一月二一日の除目であった。長らく出雲国知行国主であった藤原朝方とその子朝定を石見国に遷任させているが(『玉葉』には「出雲被推替石見了」とある)、能盛遷任後、両人を出雲国に戻している。これこそまさに、大社造営を行うための人事であった。承安四年二月一一日には、権右中弁であった吉田経房が参院し、「雑事八ヶ条」を奏しているが、その一つは「最勝光院庄事」であった(『吉記』)。次いで二月一七日には「雑事六ヶ条」を奏しているが、その中に「大野庄使事」とある。出雲国大野庄は最勝光院領であり、この時期、大野庄への使者派遣が問題となっていた。最勝光院は後白河院の御願寺で、女御建春門院滋子と子高倉天皇を本願として、承安三年に落慶法要が行われている。まさに大野庄の立券と最勝光院への寄進が進められ、そのための使者派遣が重要な課題であった。院近臣能盛の起用はそのための体制整備であった。この間は後白河院庁と建礼門院庁の役人が出雲国と都の間を行き来していたであろう。以上のように出雲国が後白河の院分国であった可能性は高い。大野庄の庄官に起用されたのは、畿内の武士紀季重の子季康であった。その兄弟が東大寺再建の大勧進となった俊乗房重源であった。重源は最勝光院落慶時点で五三才であり、実際に大野庄に派遣されたのは季康の子季明であろう。隣国隠岐は仁安元年から二年にかけて女院庁判官代中原宗家が国守で、仁安二年末に伊豆守源仲綱(頼政嫡子)と相博しているが、承安二年に仲綱は再び伊豆守に遷任している。安元二年正月、隠岐国は松殿基房の知行国となり、勧修寺流の藤原惟頼が国守に補任されているが、仲綱と惟頼の間の隠岐守も女院関係者であった可能性がある。

 

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