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2020年2月22日 (土)

播磨国田原庄の相承9

 寿永二年七月に平家一門が安徳天皇を伴い都落ちした際も都に留まった経宗は後白河院を補佐し、政治の主導権を確保した。文治元年一〇月に源義経に兄頼朝追討を命じた宣旨が出された際もその上卿を務めたが、義経没落後の頼朝による院近臣の解官要求には経宗は入らず、文治五年二月に出家し、七一才で死亡した。
 経宗の嫡子頼実も父のもとで昇進を重ねたが、藤原清隆の子定隆の娘を妻としていた。仁安三年二月の高倉天皇の即位により、翌三月に女御滋子が立后された際には、定隆が亮、頼実が権亮に補任されている。次いで嘉応元年四月に滋子が院号宣下により建春門院となると、頼実は定隆とともに女院庁の別当となった。源有房が仁安二年正月に女御滋子の職事に補任されていたことは前述の通りである。建久五年一月三〇日の除目で定隆の子俊隆が土佐守に補任されているが、知行国主は頼実であった。
 建久九年(一一九八)三月に範子内親王が立后されると、皇后宮大夫が頼実、権大夫が光隆の娘を妻とする藤原実教、亮は実教の二男公頼、大進は光隆の娘を母とする平親国であった。
 父有通が出家した建暦元年の時点で有教は二〇才であり、その後、大炊御門頼実の庇護下に入り、それが故に従三位非参議にとどまった父有通を越えて、従二位大蔵卿にまで昇進できたのではないか。ただし、頼実は二〇才年下の異母弟師経を養子・後継者とし、嘉禄元年七月五日に七一才で死亡した。師経も二年後の嘉禄三年には右大臣を辞任し、その後は任官することなく建長八年七月に出家し、正元元年八月一五日に八五才で死亡した。師経の子家嗣は、権大納言であった寛喜三年一〇月二八日に後堀河天皇の皇太子秀仁親王(四条天皇)の春宮大夫となり、貞永二年(一二三三)六月二〇日には後堀河天皇の皇后三条有子の皇后宮大夫となり、暦仁元年には内大臣に進んだが、仁治元年には辞職し、父師経に先んじて建長元年に出家した。家嗣の嫡子冬忠は父の辞任時点では権中納言であったが、二年後の仁治三年一月に四条天皇が一二才で死亡し、土御門院の子後嵯峨天皇が即位したことで、大炊御門家の朝廷内での立場は変化した。
 田原庄が安喜門院(有子)に寄進されたのは、源有教がその庇護下にあった大炊御門家の当主家嗣が皇后宮大夫を務めたことをきっかけとした。その家嗣は有教が死亡する五年前に出家している。頼実の妻が藤原清隆の孫娘(定隆の子)であったことが、有教と頼実をつないだが、有教の子の世代と大炊御門家との関係は薄まり、それゆえに公卿になることはなかった。以上、源有教領であった田原庄が安喜門院に寄進された背景はほぼ説明できたと考える。

 

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