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2020年2月22日 (土)

播磨国田原庄の相承8

 大炊御門経宗は、待賢門院の同母姉公子を母として生まれたが、一三才で父経実が死亡したこともあり、源師仲と同様、早くから待賢門院に近侍していた。永治二年(一一四二)一月七日には、前年末の近衛天皇の即位に伴い蔵人頭(正四位上)に補任されたばかりの藤原清隆が二階級昇進して正三位に叙されたことにともない、後任の蔵人頭に補任された。経宗の妻は清隆の娘であったが、同月一九日には待賢門院に仕えていた源盛行とその妻が近衛の母得子を呪詛したとの罪で配流され、二月二六日には女院が出家する事態となった。その後、経宗の昇進は停滞し、久安五年(一一四九)七月二八日に大納言二人が右大臣と内大臣に昇進して欠員が生じたことで、ようやく参議に補任されたとされる。
 仁平三年中には、近衛天皇が病気がちで、且つ皇子誕生が望めないことが明らかになったことで、崇德院が鳥羽院後の治天の君となる可能性が大きくなっていた。ところが、久寿二年七月二三日に近衛が一七才で死亡すると、その崇德院の子重仁親王ではなく、崇德の同母弟雅仁親王の子孫王(後の守仁親王、二条天皇)が後継者とされ、その前段として雅仁が天皇として即位した。経宗は春宮守仁の外戚(母懿子の同母弟)として春宮権大夫に補任され、翌年四月には権中納言に昇進した。
 七月の保元の乱で崇德院は失脚したが、経宗は正三位兼右衛門督となり、保元二年八月には中納言に昇進した。一方、信西の子達の昇進はめざましく、その影響でポストを得られなかった公家の中には信西一派を排除する動きが強まり、平治元年一二月には藤原信頼・源義朝を中心とするクーデターが発生し、経宗は実務派公卿の中心であった勧修寺流の藤原顕頼の子惟方とともに、積極的に加担した。信西一派の排除という目的を達成した経宗と惟方は政治の主導権を信頼から奪うため、熊野詣でから帰還した平氏一門と結び、二条天皇を内裏から脱出させ、清盛の六波羅亭に行幸させ、錦の御旗を失った信頼・義朝を反逆者として討伐した。
 これで図に乗った両者は後白河院をないがしろにしたが、却って院の命を受けた清盛に逮捕され、解官・配流処分を受け失脚した。惟方は出家し、政界を引退したが、経宗は二条天皇による親政が開始された翌年の応保二年には都に戻り、その二年後には正二位権大納言への復任・復位を認められた。その後は後白河、清盛との関係にも配慮し、二条院とその子六条院の死後による影響を受けることなく、高倉天皇のもとで清盛の娘徳子を母とする言仁の立太子が実現すると東宮傳となり、鹿ヶ谷の陰謀や治承三年一一月の平氏によるクーデターでも解官されることはなかった。

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