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2020年2月22日 (土)

播磨国田原庄の相承7

 有通の嫡子有教は建長六年(一二五四)八月六日に六三才(『補任』。『一代要記』では六一才)で死亡したとあり、建久三年(一一九二)の生まれとなる。『補任』には同年二月八日叙爵とあるが、その日に除目があったかどうかも確認できず、ありえないことで誤記であろう。次いで正治二年(一二〇〇)一二月二八日に下総守に補任されたとする。この日に小除目が行われたことは確認できるので(『猪熊関白記』)、叙爵と同時に国守に補任されたのではないか。この時点でも九才でしかなく、正五位下右近少将兼加賀権介で、四〇才前後であった父有通が知行国主ではなかったか。
 阿波内侍瑞子が健在であった嘉禄二年九月時点で、有教は三五才で正四位下右近少将で、翌年正月には右中将に昇進している。瑞子の没年は不明だが、田原庄領家職の継承者は有教であろう。有教は死亡した時点では従二位大蔵卿であったが、その子行通は従四位上右中将、季通は従四位下左中将にとどまり公卿とはなっていない。この点が領家職が移動した原因ではないか。
 一方、有教が公家の日記の中で「大炊御門少将」(嘉禄二年一一月一四日)「大炊御門中将」(寛喜三年正月六日外)と呼ばれている事が注目される。前述のように有房と二条天皇の母懿子はともに源有仁の養子となっていた。懿子は大炊御門経実の娘であり、有房は懿子を通じて経実の子経宗とも関係を有していた。懿子は康治二年(一一四三)六月に守仁(二条)を出産した直後に死亡したが、その時点で経宗が二五才、有房は一〇代半ばであったと思われる。藤原清隆の娘は久安三年(一一四七)に三条実房を産んでおり、有房と同世代であった。清隆の子光隆と有房はともに範子内親王と深いつながりをもっていた。三条公房は大炊御門経宗の娘を母としているが、大炊御門中将と呼ばれた源有教は公房(一一七九年生)より一〇才ほど年下であった。公房と有教の間にも関係があったことは確実である。そして公房の娘有子は後堀河天皇の中宮、次いで皇后となり、安貞元年二月に院号宣下により安喜門院と号した。有教が死亡した建長六年以降に、その子により、田原庄領家職が安喜門院に寄進されたと思われる。
 長々と細かく述べたが、前田氏が示した、おそらくは西谷氏の研究に基づく、田原庄が三条公房から有子に譲られたとの説は、公房が建長元年八月に死亡している点からして成り立たない。検討した結果、領家職は源師行→時房→時房妻→平瑞子(阿波内侍)→源有教→安喜門院と継承されたと思われる。今月中には国会図書館に依頼した西谷氏の論文のコピーが届くと思うので、その内容を確認した上で、再度コメントしたい。

 

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