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2020年2月24日 (月)

佐々木義清と淡輪庄2

 ちょうど二年前アップした「佐々木義清と淡輪庄」に訂正の必要が出たので以下に述べる。編纂所花押カードデータベースをみていたら、安貞二年五月日近衛家政所下文について、『鎌倉遺文』はそのように記すが、「禅定従二位家政所下文」と記されていた。禅定従二位を近衛家実に比定する明証がないということと思い、『公卿補任』で再確認すると、近衛家実は五月の時点では「従一位関白」であり、遺文の比定には根拠がなかった。ということで前回の記事の前半は没である。
 では誰かということになるが、二年前より『公卿補任』の利用に慣れてきたので、「従二位」で出家し、その当時生存していた人を捜した。すると従二位というのは微妙な位階で、ほとんどは正二位に進んでいる。その意味で田原庄領家源有教は希有な例であった。逆に言えば特定の有力一族の出身でなければ正三位止まりであった。ということで、予想外に簡単に該当者を確定できた。それは、三条家の一族滋野井実国の二男藤原公清であった。貞応二年に従二位前参議で出家し、安貞二年一〇月一一日に六一才で死亡している。建暦元年に参議を辞任して、従二位に叙せられた時点では四六才であった。その子実俊は八条、実隆は一条を名乗っていく。
 実国の嫡子は鳥羽院寵臣藤原家成の娘を母とする公時で滋野井を名乗る。公時の嫡子実宣は北条時政の娘を妻としているが、その仲介をしたのは実国の養子公佐であろう。公佐は家成の子成親の子であるが(当ブログの記事「藤原公佐について」参照)、頼朝の同母妹坊門姫の夫一条能保とともに早くから頼朝と連絡を取っていた人物で、その妻は義経の同母兄阿野全成の娘であった。公清の母は源雅綱の娘であるが、確認すると、これも早くから頼朝と連絡をとっていたことで知られる村上源氏雅頼の異母兄弟であった、雅頼の母は醍醐源氏源能俊(光隆の父)の娘であったが、雅綱の母は隠岐守を務め宝荘厳院に荘園を寄進していた雅範と同じく源忠宗の娘であった。忠宗は日野有綱の娘と源義家の間に産まれた嫡子義忠の子である。要は為義の甥で、義朝の従兄弟であった。以上のように源雅綱も頼朝との関係を有していた。
 公清と鳥羽・後白河院の近臣源資賢の間に生まれた八条実俊が源定綱の娘を妻としている(これは兼実に唐船の指示を受けた家司源定綱であり、九条家領への橋渡しとなったが、次の記事で述べる)。公清領がどのように九条家領となっていくかは別に検討しなければならないが、安貞二年五月の藤原公清(法名は不明)家政所下文に別当として署判を加えているのが、隠岐守を退任して間もない出雲・隠岐守護佐々木義清であることは確実であろう。前の記事で述べたように、義清と和泉国淡輪庄公文となった橘刑部丞重基とは、隠岐守護と隠岐国那具村の地頭という関係であった。近衛家政所下文でない事に気づいた時点では「またか」とショックを受けたが、再検討する中で、別当前隠岐守源朝臣が義清であることがより明確になった。もう一人の別当前備後守源朝臣については承久二年四月六日に備後守に補任された源成憲であろう(『玉蘂記』、九条道家の日記、国司一覧には出典が『玉葉」とあるが兼実は死亡しており誤植か)が、その系譜上の位置は確認できなかった。公清の関係する、清和源氏ないしは村上源氏の一族であろうか、『尊卑分脈』にも該当する人物は見当たらない。

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