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2020年2月11日 (火)

一条能保と源隆保

 「考察(三)」で述べられていた中で、訂正が必要な点を一点指摘しておく。氏は文治二年(一一八六)六月二八日に一条能保が讃岐守を治部少輔源隆保に譲ったとの記事から、能保が讃岐国知行国主となったとする(隆保について、「藤原光能について」では藤原隆季の子隆保としていたが、訂正する)。隆保は村上源氏師忠の孫師経の子で母が熱田大宮司季範の娘であることから、隆保の起用には同じく季範の娘を母とする源頼朝の推挙があったとも考えられるとする。ここまではよいが、次いで、『分脈』の隆保従兄弟隆暁の尻付に「讃岐守能保為子」とあるのを、隆保の尻付が誤まって記されたものとも考えられるとしている。最初に問題なのは、隆暁の尻付の意味であり、「隆暁が能保を養子とした」との意味なのに、氏は逆に解釈している。以下のように、この尻付は隆暁のものであり、隆保とは無関係である。この点も氏の詰めの甘さである。隆暁は保延元年(一一三五)の生まれで、一条能保は義兄(妻坊門姫の兄)源頼朝と同じ久安三年(一一四七)の生まれである。能保は三才で父通重が死亡したため、隆暁の養子となった。
 東寺長者になった勝宝院三世大僧都隆暁の祖父は摂関家家司にもなった師俊の兄師隆で、隆暁の姉妹には歌人として知られる「皇嘉門院別当」がいる。隆暁は建永元年(一二〇六)に七二才で死亡しており、皇嘉門院別当の弟であろう。彼女は崇德天皇の中宮聖子(皇嘉門院)に仕え、その死後も女院の弟九条兼実の歌会に参加している。隆暁の父俊隆の姉妹には、持明院通基の妻となり、通重を産んだ「待賢門院官女」(上西門院乳母一条)がいた。隆暁はこのような関係を背景に、従兄弟である通重の遺児能保を養子にしたと思われる。
 一方、隆保の生年は不明だが、父師経は藤原為隆の娘を母とする俊隆の同母弟で、上西門院乳母一条の母も同じであろう。隆保には崇德天皇の後宮に入った姉もいたが、隆保はその活動時期からみて、姉、さらには従兄弟である隆暁とは一世代以上年下で、能保よりも年下であった可能性が高い。能保が隆保を養子としたので「保」の一字が共通なのではなく、隆保もまた隆暁の庇護下に入ったため、父師経ではなく、伯父隆暁の一字「隆」をその名に付け、且つ、「保」の字を能保と共有している。
 以上のように、一条能保は叔父隆暁の養子となり、源隆保は年長の従兄弟である隆暁の養子となった。一緒に育ったが故に、一条能保の知行国讃岐の国守に、隆保(やや年上か)が起用された。隆暁の姉が皇嘉門院に仕えたのも、摂関家との関係ではなく、持明院通基を介した待賢門院・崇德院と関係が前提となった。また、能保が頼朝の妹で藤原清隆・光隆父子のもとで育ってられた坊門姫と結婚したのも、前述のように、両人とも待賢門院並びに崇德院との関係が深かったからである。

 

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