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2020年2月22日 (土)

播磨国田原庄の相承5

 承安二年に父師行が死亡したことは前述のとおりだが、安元二年四月二二日には後白河院と建春門院が賀茂祭を見物している。その行列の中に内侍・典侍として平瑞子がみえ、宗盛の猶子で故師行入道の娘であることが記されている(『吉記』)。
 治承二年(一一七八)正月五日の除目で有房は「院当年御給」で、左少将源通資は「臨時」で正四位下に叙せられた(『玉葉』)。通資は美福門院の分国の国守を歴任した藤原実清の娘を妻としていた。治承三年三月二六日には高倉院の第二皇女で藤原成範の娘小督を母とする範子の賀茂斎院御所が火災にあい、一時的に左少将有房の妹である典侍宅に移っている(『山槐記』)。『玉葉』には「有房宅」とあり、瑞子は兄有房と同居していたのだろう。
 斎院範子は幼少時を藤原光隆亭で過ごし、斎院勅別当は摂関家家司であった藤原経家が務めたが、治承四年四月一日に斎院長官に補任されたのは、光隆の娘を妻とする藤原実教(成親の子)で、次官は光隆の子兼隆であった。同日には一二日の「賀茂斎内親王御禊陪従」について定られたが、従四位下源朝臣有房と従五位上藤原朝臣雅隆(光隆の嫡子)がみえている。
 四月二〇日に安徳天皇殿上人の追加が行われたが、その中に「正四位下行左近少将源有房」がみえる。妹瑞子は建春門院の死後は高倉院の妻徳子(建礼門院)に仕えたと思われる。次いで治承五年一一月二八日の除目で有房は「左近権中将」に補任された(『吉記』)が、これを聞いた九条兼実は、有房の中将補任は近代之例に拠らないもので、「殊奇異々々」と述べている。平家との関係を背景とする補任が、兼実には不満であった。
 以上のように、有房という人物は複雑な背景を持つ人物であった。源師行の子でありながら、母の関係で源有仁の養子となった。師行は東大寺大勧進重源の支援者であり、安元二年の高野山延寿院鐘銘には師行の関係者の名が刻まれ、その菩提がとむらわれた。妹瑞子が宗盛の猶子となることで、高倉院の娘範子との関わりを持った。有房は、範子を通じてその保護者であった藤原光隆とその関係者ともつながりを持った。田原庄領家の候補者とされた三条公房の父実房は藤原清隆の娘を母とし、清隆の嫡子光隆の義理の兄弟であった。

 

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