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2020年2月26日 (水)

源定綱をめぐって2

 建久二年四月一九日には賀茂祭使少将保家(持明院基家の子、母は平頼盛の娘)に、兼実が舞人用の半臂(半袖の胴衣)と下重(襲、半臂と袍=上衣の間に着る衣服)を職事定綱に送らせている。建久五年一月八日夜には法成寺阿弥陀堂修正が行われ、公卿が参入したにもかかわらず、奉行の家司に来ていないものがおり、兼実が職事定綱に催促をさせている。遅刻は毎度の事とある。
 九条家家司でもあった勧修寺流長方の子長兼の日記『三長記』建久六年八月一五日条には、兼実の娘で鳥羽天皇の中宮任子が皇女昇子を産んだ際の記事が収められている。天皇の外戚となれる男子誕生が期待されたが、生まれたのは後の春華門院であった。未刻(午後二時頃)に勅使が中宮権亮三条公房(実房の子)とともに来るので、長兼は午刻(正午頃)参宮したが、その時点では公卿は誰も来ていなかった。その後、勅使を迎えた鳴弦二十人の中に木工助藤原光時(石見守能頼の子)、右近将監藤原重光(地頭として隠岐国所領を押領したことを訴えられた重頼の子)とともに、勾当定綱の子「源定親」がみえる。定親に関する史料は管見の範囲ではこれのみである。
 これに続くのが遠藤氏が指摘した①で同母弟前太政大臣兼房が出家したこと知り、「遠江権守定綱」を以て申し入れをしている。兼実はなかなかに厳しい人で、弟兼房について、才覚も見識もないと評している。前述のように源有房の中将補任にも批判的コメントを述べていた。後白河院の寵愛を受けた藤原実教については、前述の文治三年三月の石清水八幡宮臨時祭について、儀式定を、頭中将実教が執筆したことに対して、「件人一切不知漢字、而勤此役如何」とまでこき下ろしている(実際には教養のある自分と比較するとであろう)。一方では舞人が足らないとの実教の要請を受けて、藤原定家に舞人を了解させている。②は兼実の子良経が左大臣に補任され、拝賀のため挨拶した際の前駈の中に「定綱」がみえる。④は東大寺で受戒するため京都を出発する八才の仁和寺宮道助法親王一行を父後鳥羽院が見物した際に供奉した大納言兼良(兼房子)の前駈二人を定綱・康宗兄弟が務めている。管見の範囲で終見となるのが、『明月記略』建保三年一二月七日条に、後鳥羽院の子頼仁親王が前右大臣花山院忠経の娘経子を妻に迎えた際の和歌のやりとりの中に「遠江権守定綱」がみえている。弟康宗について検索すると、近衛家との関係が主であったこと、建久八年から正治二年にかけて筑前守であったことがわかる。康宗で尊卑分脈の索引を見たところ、定綱とともに確認できた。定綱のメモにも当該頁が記されていたが、何故か見落としていた。それはともかく、清和源氏頼平(頼信の弟)流で、その父通定には「従五下相模守」の尻付がある。嘉応二年閏四月四日に見任が確認できる「相模守通定」(『兵範記』)であろう。藤原基通が三月二九日に侍従に補任されたことにともなう拝賀に対馬守俊成等とともに騎馬で車後に従っている。定綱の母は「民部大甫経親女」とある。経親は藤原経忠と光房の娘(吉田経房の姉妹)の間に生まれ、本ブログ「鳥羽院の高野詣」に登場している。『分脈』では弟康宗ではなく定綱に「筑前守」とあるが、誤りであろう。定綱の子は定親はなく、康綱のみ記されている。弟康宗の子康輔には「春華門院蔵人」とあるが、定綱女子が同院女房であったためであろう。定綱について今回はここまでとする。

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