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2020年2月

2020年2月28日 (金)

後白河院の分国2

 話を戻すと、「名帳」には「後白河院」が記されているが、それに対応する国守はどうであろうか。「国司代山城前司末清」「国司代壱岐前司左衛門尉延定」については、前述の専門化した目代であると想われるが、関連史料を欠いており、山城守、壱岐守に当該人物を確認できない。通説では後白河院分国周防の国守とされているのは、治承元年正月二八日に遠江守から遷任してきた藤原季能のみである。季能は美福門院近臣俊盛の子で、遠江国は俊盛の知行国であった。季能の後任の遠江守は弟盛実で、季能は二五才であった。周防守補任五ヶ月後に季能は同じく院分国讃岐の国守に遷任した。周防国はこのわずか五ヶ月のみが院分国であったのだろうか。
 周防国は久寿二年に美福門院の分国となり、国守には甥(兄長輔の子、母は藤原清隆の娘)が起用された。女院死亡後もその地位には変更がなかったが、応保二年正月に源師行の子時盛に交代した。父師行が知行国主であった。師行は前述のように、鳥羽院、美福門院の近臣であった。その後任となったのは仁安二年正月に重任を申請している季盛であるが、藤原俊盛の子である。俊盛が東山御所を造営した功に対する勧賞であった。「国司一覧」には同年正月四日に某季盛が丹後守に見任しているとする。出典である『兵範記』同日条を確認すると。東山御所への移徒について定められた中に、饗・殿上を「季盛、丹後」が担当することとなっている。それは「仙洞御移徒部類記」にも同記が引用されている。ただし、実施された一九日条をみると、丹波守藤原惟頼が担当している。誤記の原因は不明だが、永暦年間の丹波守は季盛の兄季能であり、季盛は仁安二年正月には周防守であった。
  次いで、前述の高階信章が国守に補任されたが、これも故美福門院(この時点では八条院とすべきか)系に属していた。これが嘉応二年七月に除籍されたことにより、源師行を国主とし、その嫡子有房が周防守に補任されたと思われる。次いで季能が遷任してきたが、これは後白河院が分国主であった。そしてその五ヶ月後に後白河近臣藤原能盛が出雲守から遷任してきた。出雲守への起用には建春門院御願寺最勝光院に寄進された大野庄の立券があったが、杵築大社造営が課題となったため、周防守に遷任した。能盛は後白河近臣であったため、治承三年一一月の平家のクーデターにより周防守を解官され、平範経に交代している。範経は平家一門と思われるが、系譜上の位置づけは不明である。わずか五ヶ月のみならず、その後任の藤原能盛も出雲守在任中を含めて後白河院分国とすべきである(米谷豊之祐氏は能盛在任中の周防国は引き続き院分国としている)。

後白河院の分国1

 一院分国について、白河院政期には、本院(白河)のみならず新院(鳥羽)の分国が設定されたが、鳥羽院政期には新たな分国の設定はなくなり、新院(崇德)の分国も同様である。一時、崇德院の側近日野資憲と待賢門院判官代であった藤原宗長が国守に起用された時期の下野国を崇德の分国と考えたこともあったが、その後、両者は摂関家やその出身である高陽院とも関係を持っており、高陽院の分国との解釈に変更した。元木氏の解釈は「相変わらずの」調査不足としか評価できない。摂関家の知行国の可能性もあるが、鳥羽院政下では実質的な女院分国は院号宣下の有無に関係なく数多く認められている。その背景は御願寺造営である。一院は分国に頼ることなく造営を行い得たが、新院と女院はそうもゆかない。
 この一院分国は、子である守仁までのつなぎとされ、且つ、鳥羽院と母待賢門院から庄園をほとんど継承しなかった後白河の院政期、とりわけ、二条天皇が死亡した永万元年六月以降には一院分国が急増することになる。この点に関連して、後白河院の北面出身者が国守に起用されることが多いが、五味文彦氏は源季範(角田氏により熱田大宮司季範と誤認された。また崇德院領となった紀伊国桛田庄を公領に戻している)の例を引いて、北面出身者は自ら国務に当たることが多いとしているが、季範は鳥羽院政下の事例であり、後白河院政下では異例な国守補任が多い。
 五味氏も引用した「周防国吏務代々過現名帳」(以下では「名帳」)は編纂所影写本を見ることが可能だが、大勧進重源のもと周防国が東大寺造営料所とされた以降の記録は詳細で、国主と国守のみならず、目代まで記されている。他の造営料所の時期を含め、複数名の目代である。当時の国衙目代については定数を含めて明確な状態を記した史料はほとんどない。出雲国については、国守が交代しても、知行国主が共通な場合は目代が同じ例、さらには国主が交代しても前任の目代が継続している例もみられる。一方、杵築大社造営時には二人の目代が確認できる例もある。目代の経験・能力にもよるが、一人で職務をカバーするのは困難だと思われる。目代が複数でない場合も、それを支える部下がいなくては在庁官人をコントロールすることは容易ではない。一度だけ受領を経験し、その後は目代や庄園の預所などを兼務する有能な人物もいるが、その場合もチームで行っているのではないか。

 

2020年2月26日 (水)

源定綱をめぐって2

 建久二年四月一九日には賀茂祭使少将保家(持明院基家の子、母は平頼盛の娘)に、兼実が舞人用の半臂(半袖の胴衣)と下重(襲、半臂と袍=上衣の間に着る衣服)を職事定綱に送らせている。建久五年一月八日夜には法成寺阿弥陀堂修正が行われ、公卿が参入したにもかかわらず、奉行の家司に来ていないものがおり、兼実が職事定綱に催促をさせている。遅刻は毎度の事とある。
 九条家家司でもあった勧修寺流長方の子長兼の日記『三長記』建久六年八月一五日条には、兼実の娘で鳥羽天皇の中宮任子が皇女昇子を産んだ際の記事が収められている。天皇の外戚となれる男子誕生が期待されたが、生まれたのは後の春華門院であった。未刻(午後二時頃)に勅使が中宮権亮三条公房(実房の子)とともに来るので、長兼は午刻(正午頃)参宮したが、その時点では公卿は誰も来ていなかった。その後、勅使を迎えた鳴弦二十人の中に木工助藤原光時(石見守能頼の子)、右近将監藤原重光(地頭として隠岐国所領を押領したことを訴えられた重頼の子)とともに、勾当定綱の子「源定親」がみえる。定親に関する史料は管見の範囲ではこれのみである。
 これに続くのが遠藤氏が指摘した①で同母弟前太政大臣兼房が出家したこと知り、「遠江権守定綱」を以て申し入れをしている。兼実はなかなかに厳しい人で、弟兼房について、才覚も見識もないと評している。前述のように源有房の中将補任にも批判的コメントを述べていた。後白河院の寵愛を受けた藤原実教については、前述の文治三年三月の石清水八幡宮臨時祭について、儀式定を、頭中将実教が執筆したことに対して、「件人一切不知漢字、而勤此役如何」とまでこき下ろしている(実際には教養のある自分と比較するとであろう)。一方では舞人が足らないとの実教の要請を受けて、藤原定家に舞人を了解させている。②は兼実の子良経が左大臣に補任され、拝賀のため挨拶した際の前駈の中に「定綱」がみえる。④は東大寺で受戒するため京都を出発する八才の仁和寺宮道助法親王一行を父後鳥羽院が見物した際に供奉した大納言兼良(兼房子)の前駈二人を定綱・康宗兄弟が務めている。管見の範囲で終見となるのが、『明月記略』建保三年一二月七日条に、後鳥羽院の子頼仁親王が前右大臣花山院忠経の娘経子を妻に迎えた際の和歌のやりとりの中に「遠江権守定綱」がみえている。弟康宗について検索すると、近衛家との関係が主であったこと、建久八年から正治二年にかけて筑前守であったことがわかる。康宗で尊卑分脈の索引を見たところ、定綱とともに確認できた。定綱のメモにも当該頁が記されていたが、何故か見落としていた。それはともかく、清和源氏頼平(頼信の弟)流で、その父通定には「従五下相模守」の尻付がある。嘉応二年閏四月四日に見任が確認できる「相模守通定」(『兵範記』)であろう。藤原基通が三月二九日に侍従に補任されたことにともなう拝賀に対馬守俊成等とともに騎馬で車後に従っている。定綱の母は「民部大甫経親女」とある。経親は藤原経忠と光房の娘(吉田経房の姉妹)の間に生まれ、本ブログ「鳥羽院の高野詣」に登場している。『分脈』では弟康宗ではなく定綱に「筑前守」とあるが、誤りであろう。定綱の子は定親はなく、康綱のみ記されている。弟康宗の子康輔には「春華門院蔵人」とあるが、定綱女子が同院女房であったためであろう。定綱について今回はここまでとする。

源定綱をめぐって1

 源定綱は公清の母源雅綱の関係者であろうが、系図の上では確認できない(的外れで、後述のように源通定の子と確認できた)。実際に存在した女子の情報が系図に残っていないのはよくあることだが、男子でも子孫を含むその後の状況により情報が削除されることはままあることである。前述の備後守源成憲についても関係する情報が残っていなかった。周防守高階信章は、清章の子であろうが、系図にはみえない。清章の娘が藤原実清との間に産んだ長経は八条院分国丹後の国守として、紙背文書に関係文書が残っている。信章もその人脈で仁安三年八月に周防守に補任されたが、嘉応二年七月に摂関家家司でもあった藤原経家と院中で闘諍を起こして叙籍されている。このため、周防国知行国主経験者であった源師行の嫡子有房が国守に補任されたと思われる。以下ではとりあえず、定綱に関する情報をまとめておく。石見守護佐々木定綱とは別人の定綱がいることは、史料編纂所遠藤珠紀氏が気づき、その教示を受けた西田友広氏「中世前期の石見国と益田氏」(島根県古代文化センタ―編『石見の中世領主の盛衰と東アジア海域世界』、二〇一八年三月)で紹介された。
 遠藤氏は五味文彦氏を中心とする『明月記』研究会(現在は雑誌の刊行は休止中)のメンバーで、当該時期の記録類に精通した研究者である。西田氏論文で示された源定綱関係史料は、『明月記』正治元年六月一九日条①、同七月四日条②、同二年二月五日条③、建永元年一〇月二六日条④である。③が佐藤進一氏『鎌倉幕府守護製度の研究』で石見守護佐々木定綱と九条兼実の関係を示すものとして提示されていたが、これとは別の定綱が兼実の側近として存在することが明らかにされた。ただし、編纂所大日本史料データベースで、第四編と五編を対象に「定綱」で検索すると、より多くの情報を得ることができる。「源定綱」で検索した方が絞り込みが容易だが、その代わりに関係情報が漏れてしまうことがあり、実際の史料を確認して当該の定綱かどうかを確定しなければならない。
 現時点での初見史料は文治三年三月一六日の石清水八幡宮臨時祭で舞人の中に「侍従定家」「左衛門佐公清」とならんで「蔵人左兵衛尉定綱」がみえる(宮寺縁事抄、臨時祭六、大日本史料4-1、以下は巻数は省略し、出典は『玉葉』以外のみ表記)。両人以外にも陪従を含め九条家や近衛家の家司が複数みられる。家司の中には九条・近衛両家と関係するものは珍しくない。次いで建久元年一月三日の鳥羽天皇元服の儀式で、「三献、勧盃内蔵頭範能朝臣、瓶子蔵人定綱」とある。範能は前述のように、信西の孫で、安喜門院の祖父にあたる人物である(『愚昧別記』)、『心記』同日条には「大内只今権大納言、〈隆忠、〉一人参入、予相共見南殿御装束、右府、〈実房、〉同参入、行事蔵人一臈定綱祗候」とある。『愚昧別記』は三条実房の日記、『心記』は「伏見宮御記録天皇御元服部類記所収」とあるが、記主はネットで検索しても出てこない。編纂所所蔵柳原家記録にも別年代の『心記』が含まれているが解説はない。『別記』と表記を比較すると、本文中の「予」とは九条兼実の同母弟兼房である。

 

2020年2月25日 (火)

佐々木義清と淡輪庄3

 安貞二年の文書とともに伝来した天福二年五月二十日前左大臣家政所下文(朝比奈艶之助氏文書)については、官職から九条良平家政所の下文で問題ない。別当勘解由次官藤原顕嗣は兼高の子で九条家家司を務めている。これとは別に、藤原成親の同母弟盛頼(後に隆頼と改名)の孫顕嗣がいるが、こちらは盛頼が父義朝への貢献に基づき頼朝から与えられた肥前国晴気領地頭職を相伝している。
 和泉国淡輪庄は藤原公清から源資賢の娘を母とする嫡子実俊に譲られたと思われる。実俊の生年は不明であるが、家女房を母とする兄弟実隆は建仁三年(一二〇三)の生まれで、叙爵(年不明)後、貞応二年(一二二三)四月七日に二一才で侍従に補任されている。一方、実俊は建仁三年正月に皇太后(忻子)御給で叙爵し、翌元久元年(一二〇四)四月に侍従に補任されている。父公清は五才で叙爵(後白河天皇女御琮子給)し、一五才で左衛門佐に補任されている。実俊は文治末~建久初年の生まれであろうか。
 実俊と九条家の関係で注目されるのは、子公有の母が春花(華)門院女房(源定綱娘)であることである。春華門院は後鳥羽天皇の第一皇女昇子内親王で、その母中宮任子(宜秋門院)は九条兼実の娘である。定綱は九条家家司で、遠江権守であったこと、その子定親も家司であったことが確認できるが、系譜上の位置づけは確認できない。
 一方、九条良平は兼実の三男で母は藤原顕輔ないしはその子頼輔の娘である。良平は任子の異母弟である。実俊は天福元年(一二三三)正月に従三位に叙せられ公卿となったが、五年後の嘉禎三年(一二三八)一二月一八日に死亡している。四〇才後半であり、『尊卑分脈』には男子七人、女子一人が確認できるが、その子公有は祖父公清の従兄弟三条公宣、実清は西園寺公経、公世は公経の子洞院実雄の養子となっている。実俊は公卿にはなったが非参議であり、妻が仕える春華門院に寄進したのではないか。次いで女院から異母弟九条良平に譲られ、良平が自ら整備した成恩院に寄進したのであろう。建長元年には成恩院検校法印政所下文により、刑部丞橘重基が淡輪庄公文職に補任されている。

2020年2月24日 (月)

佐々木義清と淡輪庄2

 ちょうど二年前アップした「佐々木義清と淡輪庄」に訂正の必要が出たので以下に述べる。編纂所花押カードデータベースをみていたら、安貞二年五月日近衛家政所下文について、『鎌倉遺文』はそのように記すが、「禅定従二位家政所下文」と記されていた。禅定従二位を近衛家実に比定する明証がないということと思い、『公卿補任』で再確認すると、近衛家実は五月の時点では「従一位関白」であり、遺文の比定には根拠がなかった。ということで前回の記事の前半は没である。
 では誰かということになるが、二年前より『公卿補任』の利用に慣れてきたので、「従二位」で出家し、その当時生存していた人を捜した。すると従二位というのは微妙な位階で、ほとんどは正二位に進んでいる。その意味で田原庄領家源有教は希有な例であった。逆に言えば特定の有力一族の出身でなければ正三位止まりであった。ということで、予想外に簡単に該当者を確定できた。それは、三条家の一族滋野井実国の二男藤原公清であった。貞応二年に従二位前参議で出家し、安貞二年一〇月一一日に六一才で死亡している。建暦元年に参議を辞任して、従二位に叙せられた時点では四六才であった。その子実俊は八条、実隆は一条を名乗っていく。
 実国の嫡子は鳥羽院寵臣藤原家成の娘を母とする公時で滋野井を名乗る。公時の嫡子実宣は北条時政の娘を妻としているが、その仲介をしたのは実国の養子公佐であろう。公佐は家成の子成親の子であるが(当ブログの記事「藤原公佐について」参照)、頼朝の同母妹坊門姫の夫一条能保とともに早くから頼朝と連絡を取っていた人物で、その妻は義経の同母兄阿野全成の娘であった。公清の母は源雅綱の娘であるが、確認すると、これも早くから頼朝と連絡をとっていたことで知られる村上源氏雅頼の異母兄弟であった、雅頼の母は醍醐源氏源能俊(光隆の父)の娘であったが、雅綱の母は隠岐守を務め宝荘厳院に荘園を寄進していた雅範と同じく源忠宗の娘であった。忠宗は日野有綱の娘と源義家の間に産まれた嫡子義忠の子である。要は為義の甥で、義朝の従兄弟であった。以上のように源雅綱も頼朝との関係を有していた。
 公清と鳥羽・後白河院の近臣源資賢の間に生まれた八条実俊が源定綱の娘を妻としている(これは兼実に唐船の指示を受けた家司源定綱であり、九条家領への橋渡しとなったが、次の記事で述べる)。公清領がどのように九条家領となっていくかは別に検討しなければならないが、安貞二年五月の藤原公清(法名は不明)家政所下文に別当として署判を加えているのが、隠岐守を退任して間もない出雲・隠岐守護佐々木義清であることは確実であろう。前の記事で述べたように、義清と和泉国淡輪庄公文となった橘刑部丞重基とは、隠岐守護と隠岐国那具村の地頭という関係であった。近衛家政所下文でない事に気づいた時点では「またか」とショックを受けたが、再検討する中で、別当前隠岐守源朝臣が義清であることがより明確になった。もう一人の別当前備後守源朝臣については承久二年四月六日に備後守に補任された源成憲であろう(『玉蘂記』、九条道家の日記、国司一覧には出典が『玉葉」とあるが兼実は死亡しており誤植か)が、その系譜上の位置は確認できなかった。公清の関係する、清和源氏ないしは村上源氏の一族であろうか、『尊卑分脈』にも該当する人物は見当たらない。

播磨国田原庄の相承10

 有教は「大炊御門少将有教朝臣」(嘉禄二年一一月五節出仕殿上人、『民経記』)「大炊御門中将」(『明月記』寛喜元年八月一六日条外)と呼ばれている。『明月記』寛喜二年六月二八日条には定家が「大炊御門中将」から、行幸の供奉を怠ったため、怠状の提出を求められたとの話を聞いている。その状の筆頭には「右近権中将源有教」、末尾には「藤原朝臣頼氏」(父は源頼朝の同母妹坊門姫の子高能)の名が記されており、大炊御門中将=有教であることがわかる。源師行が時房に譲った所領にも「大炊御門地内」があった。そのため「大炊御門~」と呼ばれたのだろう.
   嘉禎三年(一二三七)一二月二六日に安嘉門院新御所への御移徒が行われた際に、公卿は女院庁別当である右大将(大炊御門)家嗣、権中納言藤原為家(定家の子)、左大弁(吉田)為経が供奉したが、事前には了解していたはずの土御門中納言通忠(別当)、大炊御門二位師経(家嗣の父)、兵部卿有教が急に変更を申し入れ、混乱が生じている。この事件から、源有教と大炊御門師経の緊密な関係がうかがわれる(『経俊卿記』)。
 有教はながらく非参議兵部卿であったが、宝治二年(一二四八)正月に従二位に叙せられたのに続いて、建長四年(一二五二)一二月四日には大蔵卿に補任された。これは前任者正三位参議源雅具が権中納言に昇進したことにより、その後任となったものである。また有教が建長六年八月六日に死亡すると、従二位前参議平惟忠が大蔵卿に補任された。当時の大蔵卿は参議経験者が補任されるポストであった。
 三条公房の娘有子=安喜門院の母は藤原範能の娘修子で、娘が立后されたことに伴い従二位に叙せられている。修子が公房の妾となったことで、その弟範海が公房の養子に入っている。範能は伯耆国久永御厨領家であり、その室には藤原実教の娘(母に関する情報は無いが、光隆の娘である可能性あり。また実教は平業房の子教成を養子としているが、教成は山科氏の祖で、その子孫が後に光隆が領家であった杵築大社領の由緒を主張し、支配を認められている。教成の母は丹後局で業房の死後は後白河院との間に覲子内親王=宣陽門院を産んでいる)や平業房の娘(嫡子有能の母)がいた。範能の父脩範は信西入道と藤原兼永娘(後白河院乳母)の間に生まれており、修子は範子と同様、信西入道の曾孫で、有子もその縁者であった。
追記、嘉禎三年末の御移徒については、大日本史料五編一一冊の読みと、同三四冊(源通忠の関連史料として掲載、写本名を明記)が異なり、前者の「家嗣」が後者では「教嗣」となっている。確認すると、藤原教嗣は存在するが、公卿にはなっていない。また、編纂所古記録フルテキストデータベースで検索すると「家嗣」と読んでおり、発行年次が新しい三四冊が誤植であったことがわかった。宮内庁書陵部所蔵の写本の画像を国文学研究資料館のHPで確認したが、「家嗣」であった。当方も、当初「安喜門院」の史料と勘違いして混乱した。

 

2020年2月23日 (日)

源光隆の任官事情3

 康治二年(一一四三)七月一一日に新御所への渡御が行われたが、わずか二月半後の九月三〇日に室町三条の御所は焼失し、統子内親王は兄崇德院の三条西洞院御所に渡御し、その後、新御所造営が行われた。光隆は安芸守の二期八年の任期が終了する前であった久安元年(一一四五)七月二五日に二二才で死亡し(『本朝世紀』。任官時の『中右記』の記事に基づけば二四才)、その直後の八月二二日に待賢門院は四五才の生涯を閉じている。その四日前には葉室顕頼が丹波国福貴御園を崇德天皇の御願寺成勝寺に寄進しており、顕頼は鳥羽院と崇德院の両方に対して貢献していたことがわかるが、佐伯智広氏はすでに死亡している藤原忠教が寄進したと誤ってしまった。それは氏が角田文衞氏による『長秋記』の誤読=顕頼も手のひらを返したように得子に接近したことを怒った崇德天皇の抗議を受けて、財産を没収されたとする誤りを踏襲したからである。藤原清隆にしても、成勝寺造営の責任者であり、供養時には勧賞を受けている。これに対して鳥羽院は有能な顕頼と清隆が得子(美福門院)のために貢献することを期待して二人を優遇したが、二人は両女院に配慮している。それは白河院を重視し、鳥羽院を軽視したため、職を解かれた長実の子達の没落を反面教師としているからでもある。
 基隆の意図は、修理大夫と公卿の座を得た上で、外孫光隆を讃岐守として知行国主となるというものであったが、讃岐守には出雲守であった庶子経隆が遷任し、出雲国は待賢門院の分国とされた。女院の御願寺円勝寺は保護者である白河院が近臣を使って造営したが、法金剛院は時間をかけて寺としての整備が継続して続けられた。そのための分国の設定であった。一方、治天の君となった鳥羽院にとっては分国は必要不可欠ではなく、白河院政時からの継続であった紀伊国の任期が終了すると、一院の分国は設定されなくなる。近臣を手足のように使い、膨大な荘園を集積しつつあったのが鳥羽院であった。一方で、鳥羽院は待賢門院だけでなく、摂関家から入内した泰子と寵愛する得子についても、称号の有無とは無関係に分国を設定している。これを院号がないので分国ではなく、普通の知行国とするのは院政の正しい理解の障害となるものでしかない。また、法金剛院の造営が一段落すると、待賢門院分国の一部を娘である前斎院統子内親王の分国に移行させている。
 複数の主人に貢献するのは、顕頼、清隆に限ったものではなく、女院の判官代であった高階家行や藤原宗長(池御前の弟)、さらには崇德院の最側近日野資憲ですら、一方では、摂関家・高陽院や鳥羽院への奉仕を行い、院司に補任されている。それはごく普通の行為であった。

 

源光隆の任官事情2

 話を戻すと、基隆の外孫として該当する人物はおらず、そこから、光隆が基隆の養子となったのは基隆の娘と源能俊の間に生まれたからではないかとの説が浮上する。もとより能俊の妻と光隆の母に関する情報は系図には残っていないが、能俊と基隆がともに白河院の有力近臣であっただけで、能俊の子光隆が基隆の養子となることはないのではないか。
 一〇月二五日、女院の御願寺法金剛院の中心となる御堂の供養が行われた。当初は二一日に予定されていたが、造営を行った基隆宅で穢れが発生する事態が生じたため、延期されていた。基隆は御堂造進賞として従三位に叙せられ、公卿となった。当然、播磨守は交代させなければならず、二日後の二七日夜に、家保を播磨守に遷任させ、讃岐守には基隆の子経隆を出雲守から遷任させた。そして空席となった出雲守に養子光隆を補任した。基隆が出雲国知行国主との解釈も可能だが、基隆が一年半後の天承二年(一一三二)三月二一日に五八才で死亡しても光隆の地位には影響がなかったことと、光隆による前斎院御所造営を補佐したのが女院庁判官代であった大舎人頭高階家行であったことから、光隆の補任当初から出雲国は女院分国であったと考えられる。光隆は基隆の後家から屋敷地の提供を受け、女院の娘前斎院統子内親王御所造営に着手したが、基隆の死後はその後家との間でトラブルが発生した。光隆が補佐役であった高階家行の娘と結婚したためで、後家は提供した敷地の返還を求め、御所造営は場所を変えて三条室町で再スタートした。また、光隆は後家との養子縁組を解消し、「源光隆」に戻っていた。実父能俊は保延三年一一月二五日に六七才で死亡するまでは健在であった。
 光隆の任国出雲では一宮杵築大社の造営が現実的な課題として浮上し、二つの事業の両立は困難であるため、二期八年の任期が終了すると、光隆は安芸守藤原光隆(知行国主は父清隆)と相博・遷任し、安芸守として前斎院御所の造営を完成させ、成功と認定された。

 

源光隆の任官事情1

 大治五年(一一三〇)一〇月二七日の夕に俄に小除目があり、九才(死亡記事によれば七才)の藤原光隆が元服と同時に叙爵し、出雲守に補任されたことについては、これまでも何度か述べたが、その背景が『長秋記』九月一日条に述べられていたことにようやく気づいたので、確認したい。
 光隆は源能俊の子であったが、能俊の年齢を勘案して、藤原基隆の養子となった。そのため「藤原光隆」と記されていた。九月一日に源師時が待賢門院のもとを訪問したところ、女房から基隆の書状について相談があった。基隆は播磨、伊予、讃岐守という近臣有力者の指定席を歴任しつつ、白河院、女院の御願寺造営に対して成功を積んできていた。そうした中、修理大夫補任を望んでいた。大治二年一月の除目で、藤原長実が辞任し、嫡子顕盛が修理大夫に補任されていた。顕盛は白河院政期に、時に鳥羽院の要望すら握り潰したことがあったため、鳥羽院政開始の翌大治五年年四月、鳥羽院は顕盛を修理大夫から解任した。それが六月二〇日夜の除目で顕盛が修理大夫に復帰したため、問題は解決したかにみえていた。そうした中での基隆の希望であり、それを知った長実は事ある毎に怨み言を述べていた。基隆は現任の播磨守を弟である讃岐守家保と相博し、自らは修理大夫となり、外孫を讃岐守に任じ、知行国主となることを望んでいた。長実は九月九日には妻一人が死亡しており(年末にも別の妻が死亡)、心穏やかならざらぬ状態であった。
 一〇月一日、出雲守であった基隆の庶子経隆が朝覲行幸に際しての勧賞で正五位下に叙せられた。次いで五日の除目で、基隆は播磨守のまま修理大夫を兼ねることになり、顕盛は尾張守はそのままであったが、公卿への足がかりとなるポストを再び失った。今回の除目の内容について、中御門宗忠は『中右記』の中で、「多くは以て道理也」と評価しているが、復帰したばかりの修理大夫の交代には疑問を述べている。白河院没後の待賢門院庁別当の中心と位置づけられていたが、長承三年正月二五日に顕盛は三五才で死亡した。末娘得子の行く末を案じていた長実はその五ヶ月前に五九才で死亡していた。
 得子が鳥羽院の寵愛を受けるようになるのは顕盛が死亡した長承三年春とされ、八月の長実の一周忌にその後家尼のもとを訪れた師時は、得子が寵愛を受けているのは家門の面目を施すものだが、その一方で、得子の兄弟姉妹は近習から外され、国務の一時停止処分を受けたり、宅地・荘園などの私財を没収されていることを歎いている。その中で、故顕盛とともに鳥羽院近臣藤原顕頼も財産を没収されているとの解釈が、角田文衞氏によりなされ、定説となっているが、前述のように史料の誤読である。そこでは故顕盛の蔵を近臣顕頼が摘発し、政府に納めたにもかかわらず、没収されたことが記されているだけである。この背景に、得子に対する母女院の想いがあり、それを代弁した崇德天皇が鳥羽院に処分を求めたとの解釈がなされているが、誤りである。鳥羽院としては、白河院近臣として我が物顔に振る舞っていた長実の子達に強い不満を持っており、得子を寵愛することで、彼らが外戚として増長することをさけるために処分を行ったものである。そのため、待賢門院の兄弟が西園寺氏、德大寺氏(いずれも同母兄)、三条氏(異母兄)として摂関家に次ぐ地位を長きに亘って占めたのに対して、得子の兄弟についてはそうなっていない。一方、実務官僚の代表である顕頼の子孫は葉室家として有力な家として長きにわたり存続している。

2020年2月22日 (土)

播磨国田原庄の相承9

 寿永二年七月に平家一門が安徳天皇を伴い都落ちした際も都に留まった経宗は後白河院を補佐し、政治の主導権を確保した。文治元年一〇月に源義経に兄頼朝追討を命じた宣旨が出された際もその上卿を務めたが、義経没落後の頼朝による院近臣の解官要求には経宗は入らず、文治五年二月に出家し、七一才で死亡した。
 経宗の嫡子頼実も父のもとで昇進を重ねたが、藤原清隆の子定隆の娘を妻としていた。仁安三年二月の高倉天皇の即位により、翌三月に女御滋子が立后された際には、定隆が亮、頼実が権亮に補任されている。次いで嘉応元年四月に滋子が院号宣下により建春門院となると、頼実は定隆とともに女院庁の別当となった。源有房が仁安二年正月に女御滋子の職事に補任されていたことは前述の通りである。建久五年一月三〇日の除目で定隆の子俊隆が土佐守に補任されているが、知行国主は頼実であった。
 建久九年(一一九八)三月に範子内親王が立后されると、皇后宮大夫が頼実、権大夫が光隆の娘を妻とする藤原実教、亮は実教の二男公頼、大進は光隆の娘を母とする平親国であった。
 父有通が出家した建暦元年の時点で有教は二〇才であり、その後、大炊御門頼実の庇護下に入り、それが故に従三位非参議にとどまった父有通を越えて、従二位大蔵卿にまで昇進できたのではないか。ただし、頼実は二〇才年下の異母弟師経を養子・後継者とし、嘉禄元年七月五日に七一才で死亡した。師経も二年後の嘉禄三年には右大臣を辞任し、その後は任官することなく建長八年七月に出家し、正元元年八月一五日に八五才で死亡した。師経の子家嗣は、権大納言であった寛喜三年一〇月二八日に後堀河天皇の皇太子秀仁親王(四条天皇)の春宮大夫となり、貞永二年(一二三三)六月二〇日には後堀河天皇の皇后三条有子の皇后宮大夫となり、暦仁元年には内大臣に進んだが、仁治元年には辞職し、父師経に先んじて建長元年に出家した。家嗣の嫡子冬忠は父の辞任時点では権中納言であったが、二年後の仁治三年一月に四条天皇が一二才で死亡し、土御門院の子後嵯峨天皇が即位したことで、大炊御門家の朝廷内での立場は変化した。
 田原庄が安喜門院(有子)に寄進されたのは、源有教がその庇護下にあった大炊御門家の当主家嗣が皇后宮大夫を務めたことをきっかけとした。その家嗣は有教が死亡する五年前に出家している。頼実の妻が藤原清隆の孫娘(定隆の子)であったことが、有教と頼実をつないだが、有教の子の世代と大炊御門家との関係は薄まり、それゆえに公卿になることはなかった。以上、源有教領であった田原庄が安喜門院に寄進された背景はほぼ説明できたと考える。

 

播磨国田原庄の相承8

 大炊御門経宗は、待賢門院の同母姉公子を母として生まれたが、一三才で父経実が死亡したこともあり、源師仲と同様、早くから待賢門院に近侍していた。永治二年(一一四二)一月七日には、前年末の近衛天皇の即位に伴い蔵人頭(正四位上)に補任されたばかりの藤原清隆が二階級昇進して正三位に叙されたことにともない、後任の蔵人頭に補任された。経宗の妻は清隆の娘であったが、同月一九日には待賢門院に仕えていた源盛行とその妻が近衛の母得子を呪詛したとの罪で配流され、二月二六日には女院が出家する事態となった。その後、経宗の昇進は停滞し、久安五年(一一四九)七月二八日に大納言二人が右大臣と内大臣に昇進して欠員が生じたことで、ようやく参議に補任されたとされる。
 仁平三年中には、近衛天皇が病気がちで、且つ皇子誕生が望めないことが明らかになったことで、崇德院が鳥羽院後の治天の君となる可能性が大きくなっていた。ところが、久寿二年七月二三日に近衛が一七才で死亡すると、その崇德院の子重仁親王ではなく、崇德の同母弟雅仁親王の子孫王(後の守仁親王、二条天皇)が後継者とされ、その前段として雅仁が天皇として即位した。経宗は春宮守仁の外戚(母懿子の同母弟)として春宮権大夫に補任され、翌年四月には権中納言に昇進した。
 七月の保元の乱で崇德院は失脚したが、経宗は正三位兼右衛門督となり、保元二年八月には中納言に昇進した。一方、信西の子達の昇進はめざましく、その影響でポストを得られなかった公家の中には信西一派を排除する動きが強まり、平治元年一二月には藤原信頼・源義朝を中心とするクーデターが発生し、経宗は実務派公卿の中心であった勧修寺流の藤原顕頼の子惟方とともに、積極的に加担した。信西一派の排除という目的を達成した経宗と惟方は政治の主導権を信頼から奪うため、熊野詣でから帰還した平氏一門と結び、二条天皇を内裏から脱出させ、清盛の六波羅亭に行幸させ、錦の御旗を失った信頼・義朝を反逆者として討伐した。
 これで図に乗った両者は後白河院をないがしろにしたが、却って院の命を受けた清盛に逮捕され、解官・配流処分を受け失脚した。惟方は出家し、政界を引退したが、経宗は二条天皇による親政が開始された翌年の応保二年には都に戻り、その二年後には正二位権大納言への復任・復位を認められた。その後は後白河、清盛との関係にも配慮し、二条院とその子六条院の死後による影響を受けることなく、高倉天皇のもとで清盛の娘徳子を母とする言仁の立太子が実現すると東宮傳となり、鹿ヶ谷の陰謀や治承三年一一月の平氏によるクーデターでも解官されることはなかった。

播磨国田原庄の相承7

 有通の嫡子有教は建長六年(一二五四)八月六日に六三才(『補任』。『一代要記』では六一才)で死亡したとあり、建久三年(一一九二)の生まれとなる。『補任』には同年二月八日叙爵とあるが、その日に除目があったかどうかも確認できず、ありえないことで誤記であろう。次いで正治二年(一二〇〇)一二月二八日に下総守に補任されたとする。この日に小除目が行われたことは確認できるので(『猪熊関白記』)、叙爵と同時に国守に補任されたのではないか。この時点でも九才でしかなく、正五位下右近少将兼加賀権介で、四〇才前後であった父有通が知行国主ではなかったか。
 阿波内侍瑞子が健在であった嘉禄二年九月時点で、有教は三五才で正四位下右近少将で、翌年正月には右中将に昇進している。瑞子の没年は不明だが、田原庄領家職の継承者は有教であろう。有教は死亡した時点では従二位大蔵卿であったが、その子行通は従四位上右中将、季通は従四位下左中将にとどまり公卿とはなっていない。この点が領家職が移動した原因ではないか。
 一方、有教が公家の日記の中で「大炊御門少将」(嘉禄二年一一月一四日)「大炊御門中将」(寛喜三年正月六日外)と呼ばれている事が注目される。前述のように有房と二条天皇の母懿子はともに源有仁の養子となっていた。懿子は大炊御門経実の娘であり、有房は懿子を通じて経実の子経宗とも関係を有していた。懿子は康治二年(一一四三)六月に守仁(二条)を出産した直後に死亡したが、その時点で経宗が二五才、有房は一〇代半ばであったと思われる。藤原清隆の娘は久安三年(一一四七)に三条実房を産んでおり、有房と同世代であった。清隆の子光隆と有房はともに範子内親王と深いつながりをもっていた。三条公房は大炊御門経宗の娘を母としているが、大炊御門中将と呼ばれた源有教は公房(一一七九年生)より一〇才ほど年下であった。公房と有教の間にも関係があったことは確実である。そして公房の娘有子は後堀河天皇の中宮、次いで皇后となり、安貞元年二月に院号宣下により安喜門院と号した。有教が死亡した建長六年以降に、その子により、田原庄領家職が安喜門院に寄進されたと思われる。
 長々と細かく述べたが、前田氏が示した、おそらくは西谷氏の研究に基づく、田原庄が三条公房から有子に譲られたとの説は、公房が建長元年八月に死亡している点からして成り立たない。検討した結果、領家職は源師行→時房→時房妻→平瑞子(阿波内侍)→源有教→安喜門院と継承されたと思われる。今月中には国会図書館に依頼した西谷氏の論文のコピーが届くと思うので、その内容を確認した上で、再度コメントしたい。

 

播磨国田原庄の相承6

 ようやく、師行の子有房と公房が結びついてきた。清隆には経宗の妻となった娘もいた。公房の母は経宗の娘であった。経宗と清隆の娘の間に生まれた女性が実房との間に公房を産んだ可能性もあるが、女性の場合、その母に関する情報は残っていない事が多い。ただ、有房の養父は源有仁であり、有仁が養女としたのが経実の娘=経宗の三才年上の同母姉懿子であった。懿子は雅仁親王(後白河)の妃となり、一七才であった雅仁の第一皇子守仁親王(二条天皇)を産んだが、その直後に死亡した。有房は有仁の養女懿子を介して、経宗の兄弟であった。その経宗の娘が産んだのが公房であった。
 前述のように田原庄預所(領家)職は源師行→子時房→時房妻→師行姫君=瑞子に譲られ、『明月記』の記事にあるように、阿波内侍瑞子は嘉禄二年の九月一一日時点でも、推定六〇代後半で田原庄領家として健在であったが、兄有房はすでに死亡しており、その子有通に代替わりしていた。『公卿補任』によると有通は当初は「盛房」と名乗っていた。父有房と母方の祖父忠盛にちなむものであったが、平家の滅亡を契機に改名したと思われる。
 有通は仁安三年(一一六八)正月一二日に「高松院合爵」で叙爵している。その後しばらく任官・叙位はなかったが、文治五年三月一六日の石清水八幡宮臨時祭には使者藤原定輔の陪従として「藤原有通」とみえ(石清水八幡宮記録)、これ以前に改名していた。建仁三年(一二〇三)九月三〇日には母(忠盛の娘)の死による暇服から右近少将に復任している(『補任』)。生年は不明だが、系図には瑞子を姉と記すものがある。実質的には兄有房の養女でもあり、叔母瑞子と有通は同世代であったと思われる。
 その後は高松院と建春門院が安元二年に死亡したこともあって有通(盛房)の任官・叙位は停滞し、有通改名後の文治五年九月一〇日に侍従に叙せられている。その後も建久九年一二月九日に父有房も務めた右近少将に補任され、建仁二年正月従四位下、承元元年正月に従四位上、同二年正月に権中将に転じ、同三年正月正四位下、同四年正月内蔵頭補任を経て、同年七月二一日に従三位公卿(非参議)と順調に昇進した。翌建暦元年(一二一一)五月一四日に出家し、『明月記』建保元年(一二一三)一二月八日条に「去比入道有通卿逝去云々」とある。推定年齢は五〇代前半である。父の養女であった瑞子に先立って死亡した。

 

播磨国田原庄の相承5

 承安二年に父師行が死亡したことは前述のとおりだが、安元二年四月二二日には後白河院と建春門院が賀茂祭を見物している。その行列の中に内侍・典侍として平瑞子がみえ、宗盛の猶子で故師行入道の娘であることが記されている(『吉記』)。
 治承二年(一一七八)正月五日の除目で有房は「院当年御給」で、左少将源通資は「臨時」で正四位下に叙せられた(『玉葉』)。通資は美福門院の分国の国守を歴任した藤原実清の娘を妻としていた。治承三年三月二六日には高倉院の第二皇女で藤原成範の娘小督を母とする範子の賀茂斎院御所が火災にあい、一時的に左少将有房の妹である典侍宅に移っている(『山槐記』)。『玉葉』には「有房宅」とあり、瑞子は兄有房と同居していたのだろう。
 斎院範子は幼少時を藤原光隆亭で過ごし、斎院勅別当は摂関家家司であった藤原経家が務めたが、治承四年四月一日に斎院長官に補任されたのは、光隆の娘を妻とする藤原実教(成親の子)で、次官は光隆の子兼隆であった。同日には一二日の「賀茂斎内親王御禊陪従」について定られたが、従四位下源朝臣有房と従五位上藤原朝臣雅隆(光隆の嫡子)がみえている。
 四月二〇日に安徳天皇殿上人の追加が行われたが、その中に「正四位下行左近少将源有房」がみえる。妹瑞子は建春門院の死後は高倉院の妻徳子(建礼門院)に仕えたと思われる。次いで治承五年一一月二八日の除目で有房は「左近権中将」に補任された(『吉記』)が、これを聞いた九条兼実は、有房の中将補任は近代之例に拠らないもので、「殊奇異々々」と述べている。平家との関係を背景とする補任が、兼実には不満であった。
 以上のように、有房という人物は複雑な背景を持つ人物であった。源師行の子でありながら、母の関係で源有仁の養子となった。師行は東大寺大勧進重源の支援者であり、安元二年の高野山延寿院鐘銘には師行の関係者の名が刻まれ、その菩提がとむらわれた。妹瑞子が宗盛の猶子となることで、高倉院の娘範子との関わりを持った。有房は、範子を通じてその保護者であった藤原光隆とその関係者ともつながりを持った。田原庄領家の候補者とされた三条公房の父実房は藤原清隆の娘を母とし、清隆の嫡子光隆の義理の兄弟であった。

 

播磨国田原庄の相承4

 仁平三年(一一五三)三月一日の忠実の妾である女房播磨局知足院堂供養に忠実に扈従する人々の中に「有房」がみえ(『兵範記』)、摂関家との関係も有していた。その生年は不明だが、国文学(歌人として知られる)の研究では天承・長承年間(1131-1135)頃とされる。養父有仁が死亡した久安三年の時点では一〇代半ばで、その一〇年後に但馬守に補任されたことになる。永暦元年(一一六〇)一一月二三日には、右兵衛佐実清、若狭守隆信、左少将定能(美福門院の娘高松院の乳母夫季行の子)とともに「侍従有房」が賀茂臨時祭の舞人としてみえる。歌人として前隠岐守雅範(源)朝臣がみえる(『山槐記』)。実清、隆信は美福門院分国の国守を務め、雅範は保元三年一二月一七日には美福門院御給で従四位下に叙せられ、鳥羽院から美福門院に譲られた宝荘厳院領近江国香御園の寄進者である(平治元年閏五月日宝荘厳寺領荘園注文写、東寺百合文書)。有房の父師行もまた、鳥羽・美福門院の近臣で、有房が保元三年一月六日に従五位上に叙せられたのは「師行朝臣造高松殿賞」であった。
 Wikipediaには有房が平治の乱で叔父師仲とともに藤原信頼方となったために解官されたと記されている。確かに『平治物語』には藤原成親とともに「但馬守有房」がみえるが、解官は確認できない。有房の年の離れた妹瑞子の母は信西入道の娘であり、師行・有房父子が信頼方となったとは考えられない。叔父師仲は年少時より待賢門院に近侍しており、女院判官代から鳥羽院・美福門院方に転じた信西を快く思っていなかった。なにより、保元の乱後の信西の子達の栄達で最も不利な立場に置かれたのは女院と崇德院に近い人々であった。師仲と師行・有房父子の立場は対照的であった。それゆえ、土壇場で信頼方を離脱したにもかかわらず師仲は解官され配流処分を受けた。
 有房は仁安元年(一一六六)八月二七日の除目で「左近衛権少将」に補任され(『山槐記除目部類』)、翌二年一月二七日には女御滋子(建春門院)の職事に補任されている(『兵範記』)。その妻が平忠盛の娘であったことがその背景にあった。この時点で清盛の子宗盛はようやく二〇才であり、瑞子と宗親がその養子となったのは、これ以降であろう。有房は仁安三年正月六日の除目で従四位下に叙せられ、三条実房の日記『愚昧記』同年四月一六日条では、賀茂祭の警固に衛府があたるため、「左少将有房」と会話を交わしたことと、有房が入ろうとした宣仁門が先例と違うとして、実房が西方から入るべきだと注意したが、有房が反論したことが記されている。同年八月二七日には御白河院の第五皇女惇子内親王が伊勢斎宮となり、家司と職事が定められているが、職事七人の中に「左少将有房朝臣」とともに弟である「散位時房」がみえている。

 

播磨国田原庄の相承3

 そこで思い出したのが五味氏の論文「東大寺浄土寺の背景」(同氏『院政期社会の研究』)である。そこでは、東大寺大勧進重源が関係した安元二年(一一七六)高野山延寿院鐘銘から「為僧照静・僧聖慶・源時房・尼妙法兼法界衆生也」が引用され、重源が関係者の菩提を弔ったものだとされる。聖慶と時房は源師仲の子であり、五味氏は最初の照静を師行に比定することも十分可能だとする。そうすると尼妙法を時房の妻に比定することも可能である。その場合、亡夫領を相続して、銘文作成までに死亡したことになる。
 師行の嫡子有房は、一旦、源有仁(輔仁親王の子、1103~1147)の養子となったとされる。有房の母である藤原清兼(後述の清隆の叔父忠清の子で、その姉妹が源義朝の母)の娘については「大蔵卿源師行妾、有房母」(『分脈』)とある。一方で、清兼の兄弟行俊は待賢門院蔵人であるが、その妻は花園左府(有仁)女房とある。また、清兼の子惟清には「左大臣(有仁)勾当」と記されている。こうしたことが、有房が有仁の養子に入った背景であった。
 師行の子としては、「時盛」がいる。これも五味氏によるが、当方が確認できるのは応保二年(一一六二)正月二七日に源時盛が周防守に補任されており、それに対応するのが『周防国吏務代々過現名帳』にみえる源蔵人時盛と大蔵卿入道という点である。師行は久安五年(一一四九)一〇月に大蔵卿に補任後、ほどなく出家したが、周防国知行国主であった。この時盛が後に時房と改名したと思われる。「時盛」は有房の妻の父平忠盛との関係を思わせるが、「時房」は祖父師時と保護者となった兄有房にちなんだ名前であろう。
 有房は時盛に五年先んじて保元二年(一一五七)三月二六日に但馬守に補任されており、この場合も父師行が知行国主であったと思われ、時盛の兄であろう。一方、有房の関係者として平宗盛の養子(猶子)となった平瑞子と宗親がいる。瑞子は安元二年には高倉天皇典侍で、故師行入道女とある(『吉記』)。前述の「姫君」であろう。師行晩年の子であるがゆえに、有房の縁(妻が忠盛の娘)をたどって兄(宗親)とともに宗盛の猶子となったのだろう。宗盛は久安三年(一二四七)生であり、瑞子と宗親の誕生は永暦年間頃であろう。この時点で師行は六〇代初めである。

 

播磨国田原庄の相承2

 それによると、時房には八条院領播磨国田原庄だけでなく、丹波国多紀庄内泉村と屋敷地、田畠林等を譲っているが、嫡子有房の沙汰に従うことを求めている。譲状の年次は不明だが、ここでは置文と違い、姫君は登場しない。姫君が時房の娘であるならば、時房の妻に一期のみ譲る必要は無く、前の記事で述べたように、師行の晩年の娘であろう。師行は承安二年六月に死亡した(『分脈』)。七〇代前半であったと思われる。
 九条家との関係は、正応二年一二月二八日後深草上皇院宣案(九条家545(2))が初見となり、問題はその間の経緯である。兵庫県歴史博物館の学芸員前田徹氏による鎌倉後期の田原庄の研究論文があることは確認できたが、その紀要は日本史学科のある大学にしか送られていないようで、国会図書館に複写を依頼したが、同博物館の学芸員によるコラム「神積寺の板碑と播磨国田原庄―荘園を歩く(その2)」(二〇一八年七月一五日)に、前田氏の論文のエッセンスが述べられていた。前田氏は中世後期が専門のようである。
 コラムの中で前田氏は数ある説の中で、時房の妻から一人程度別の人物の手をへて三条公房に伝えられ、次いで公房から娘有子(後堀河天皇の皇后、後の安喜門院)をへて、甥(有子の姉妹と九条忠家の子)忠教に譲られ、以後九条家に相伝されたと。有子から忠教への相伝は、田原庄内に残された安喜門院と忠教を記念する石碑の内容から正しいが、前者(公房領となった点)については根拠が薄弱である。コラムの末尾に記された参考文献から、西谷正浩氏の「公家領荘園の変容―九条家領荘園の個別的検討を中心に―」(同氏『日本中世の所有構造』)がその典拠となったと思われるが、これまた前述の紀要と同じく、所蔵館は限られ、国会図書館で複写するしかなさそうである。ただし、西谷氏の学位を認定した資料が九州大学から公開されており、その概要を知る事はできる。論文そのものは『福岡大学人文論叢』29巻4号掲載されているが、大学から公開されているのは35巻以降である。
 ところが、時房の妻から公房に伝わる経路が思いつかず、暗礁に乗り上げたのである。時間は日付が変わったが寝ることもできずに考え続けた。公房は藤原忠親(『山槐記』の記主)の娘を妻とし、藤原経宗の娘を母とする。父実房は藤原清隆の娘を母とし、祖父公教は藤原顕季の娘を母としている。公房の娘有子の母については情報がない。嫡子実親については忠親の娘が母であるがゆえに、両方の祖父(実房と忠親)の一字を取った名前である。

 

播磨国田原庄の相承1

 ここのところ、『長秋記』の記主源師時の二男とされる師行領について検討していたが、暗礁に乗り上げ、立ち止まることが多かった。ある程度関係論文を読んだが、とても解明されたと納得できるレベルのものではなかった。それとともに、日記の写本の違いにも悩まされた。
 最初に後者について言及すると、近江国が忠実の知行国であったのは少なくとも久安二年一一月一四日まで遡るとの五味文彦氏の説について、菊池紳一氏が『台記』の増補史料大成本を引用して誤りだと批判していたことがあった。しかし、五味氏の論文を読むと、氏が『公卿補任』の誤りや、『台記』の活字本の誤りを正したうえで、論を進めていることがわかる。大成本『台記』についても、仁平元年二月四日条について、「禅閣」を「禅閤」(忠実)と修正し、「相伝」を「相博」に正している。とりあえず、現時点で当方ができるのは、史料編纂所の台記謄写本二つと『史料総覧』作成のための稿本をみることしかできないが、五味氏の「入道殿〈親近江吏務〉」の「親」の根拠となった写本は確認できなかった。ただし、各写本には微妙な違いがあり、菊池氏の立場なら、根拠となった写本を確認した上での批判が必要だと思う。前述(だと思うが)のように、五味氏が仁安二年閏七月日賀茂社神主等解(『兵範記』紙背文書)を根拠に、忠通の知行国播磨が基房に譲られたと説いたのに対して、『兵範記』の記主平信範は近衛家に仕えており、当該の解は当時蔵人頭権右中弁であった信範の手許にたまたま残され、その裏が日記に使用されただけであるという、歴史の専門家とは考えられない根拠(まさに寅さんの「それを言っちゃあおしめえよ」である)を述べている。これに元木泰雄氏の疑問と同じく、播磨守藤原隆親(忠隆の孫)は平忠盛の娘を母とし、清盛の甥にあたっていることも根拠に加えている。隆親については本ブログで検討したが、菊池氏の批判はいずれも的外れで、当方は五味氏の説が正しいと考える。
 前者については、とりあえず播磨国田原庄の領家職が九条家のものとなった経過についてのみ触れる。田原庄全体の問題は、別の記事を立てる。田原庄は保延七年(一一四一)に源師行が鳥羽院庁に寄進したのをうけて、鳥羽院庁下文が出された(遺文6065)。次いで承安元年(一一七一)一〇月二九日以前に、師行が庶子である散位時房に譲ったが、時房が自分に先立ち死亡したため、改めて時房の妻に一期分として譲り、その後は姫君が相伝することを記した置文を作成している。同二年二月二八日には師行の嫡子左少将有房がこれを確認しているが、そこに本来の師行譲状が引用されている(遺文6116,6117)。

2020年2月21日 (金)

源有房をめぐって2

 「姫君」とは安元二年(一一七六)四月二二日に内侍典侍としてみえる平瑞子(『吉記』)であろう。そこには師行入道の娘で、平宗盛の猶子と記されている。この時点の宗盛は三〇才であり、その猶子となった瑞子が師行の晩年の子であることは確実である。有房の二男有通は平忠盛の娘を母として、仁安三年(一一六八)正月に叙爵している(『公卿補任』)。瑞子は甥有通と同世代で、宗盛の猶子となり、治承三年(一一七九)一一月一九日に阿波守に補任された宗親も瑞子の同世代の兄であろう。東大寺浄土堂は阿波国(弟宗親が阿波守であった時期であろう)に建立されたものを、後に重源が東大寺に移したもので、その際に本来の丈六仏九体に加えて六条殿尼御前が願主となって一体が追加されたというが、尼御前=瑞子である。瑞子は高倉天皇の没後は建礼門院(中宮徳子)に仕えたが、その一方で、治承三年三月二六日に高倉天皇の娘範子親王(母は藤原成範の娘小督)の斎院御所が火災で焼け出された際には、「左少将有房妹典侍宅」(『山槐記』)が仮の御所として使用されている。『玉葉』には「左少将有房朝臣宅」とあり、年の離れた瑞子は兄宅に同居していたのであろう。
 その後、瑞子は兄時房妻の一期分とされた播磨国田原庄領家(預所)職等を譲られたと思われ、それが丈六仏一体を造立することを可能とした。一方、兄とされる宗親は世俗を離れ、修行者として活動している。五味氏論文では触れられなかったが、その後の瑞子に関しては『明月記』嘉禄二年(一二二五)九月一一日条の中で述べられている(編纂所HPで所蔵する徳大寺家本が閲覧でき、国会図書館デジタルの国書刊行会本と対照)。当時の醍醐座主の母尼が有通卿姉新阿弥陀仏尼の房にいることを聞いた藤原定家がこの尼に関する情報を述べている。『明月記』には歌人でもあった有房が度々登場する。瑞子の母は信西入道の子で、證(澄ヵ)憲法印の妹であった。系図では信西の娘に「少将有房室」と記されているが、瑞子は宗盛の猶子となる一方、有房宅に同居し、実質的に養女となっていた。平家滅亡後は名実ともに有房の養女となったがため、本来の「師行室」が「有房室」に書き換えられたのであろう。瑞子が「阿波内侍」と同一人物であるとの説は国文学者宮地崇邦氏『阿波内侍素性』で出され、水原一氏により支持された。ただし、瑞子は『吉記』にあるように、師行入道の娘で、有房の妹であったが、年が離れていることもあって、その養女となった。検討の過程では混迷を極めたが、ようやく、すっきりしたと実感できた。
付記:阿波内侍については『平家物語』(覚一本)中の「大原御幸」で登場する老尼が信西入道の娘阿波内侍であると素性を明かしたとされるが、『明月記』にあるように、その母が娘であり、本人は孫である。その生年は平治の乱前後であり、文治二年院の御幸の時点では三〇才前で、嘉禄二年の時点で六〇代半ばである。「中納言典侍」の「中納言」とは信西の子で平治の乱後復活し安元二年に権中納言(寿永二年には中納言、文治三年死亡)となっていた成範との関係であろう。成範の孫娘である斎院範子内親王が、典侍の兄源有房宅を臨時の御所としたのはそのためであった。生まれてすぐに平治の乱で母方の関係者が没落し、父師行も高齢であったため、兄有房が仲介して宗盛の猶子となったのであろう。

 

源有房をめぐって1

 源有房は一二世紀半ばから末にかけてその活動が知られる公家で、歌集『有房集』で知られる。国文学からの研究が中心であったが、五味文彦氏「東大寺浄土堂の背景」では東大寺再建を行った大勧進重源との関係が明らかにされた。有房の父母、兄弟、子弟については情報が錯綜しており、可能な範囲で整理したい。本来はその父である源師行について検討していたが、その前提となる情報の整理が不可欠なことを実感させられたためである。この一週間はこの問題で悪戦苦闘をよぎなくされ、記事のアップに到らなかった。
 有房の生没年は不詳であるが、国文学者による「天承・長承頃(一二三〇年代前半)の誕生か」との推定は、有房の叙位・任官の状況に適合している。その父は村上源氏師時=『長秋記』の記主の子(二男)師行であるが、後三条天皇の孫で皇位継承者とされた輔仁親王の子源有仁の養子となったとされる(『尊卑分脈』)。父師行ではなく、有仁と関係する名前であるのはそのためだろう。有仁の子では上西門院女房となった西御方(後に上西門院の養女となった高松院の女房)と御匣殿(後に、上西門院女房であった滋子=建春門院の女房)が確認できる。有房もこれらの娘の一人との結婚を前提として養子となったのだろうが、その叙爵前に有仁が死亡した(一一四七年)ことと、有仁娘との間に子が生まれなかったことにより、実家に戻ったのであろうか。
 管見では有房の初見史料は仁平三年三月一日に藤原忠実の妾播磨局の知足院堂の供養が行われた際の扈従者として「宗長」(宗兼の子、池禅尼の弟ヵ)とともに「有房」がみえる。推定年齢は二〇代前半で、叙爵していた可能性は高いが、任官が確認できるのは保元二年三月二六日の但馬守補任である(『兵範記』)。応保二年正月二七日には弟と思われる時盛が周防守に補任されているが、父師行が知行国主であったことが確認でき(五味文彦「院政期知行国の変遷と分布」)、有房の場合も同様であったと思われる。
 時盛は仁安二年七月三日に「周防前司」(『兵範記』)とみえるのが終見であり、その後の任官・叙位は確認できない。承安元年(一一七一)一〇月二九日僧(師行)置文には、所領を嫡子有房、庶子散位時房等に分割して譲ったが、大夫(時房)が死亡したことで、時房妻に一期分として譲り、その後は「姫君」(師行晩年時の娘ヵ)に与えることが述べられ、その扱いを有房が委ねられている(九条家文書)。時盛が後に時房と改名したと思われ、兄有房の庇護下に入ったためであろう。

 

2020年2月14日 (金)

院分国ヵ近臣知行国ヵ4

 候補となる人物としては、安元六年(一一八〇=治承四ヵ)に授法された醍醐寺大法師聖観について「前隠岐守源季康子」とある源季康ぐらいである(血脈類集記)。季康は村上源氏季時の子で、関係史料はほとんどないが、季時の父宗光が長治元年(一一〇四)正月に備後守に補任されている(『為房卿記』。『分脈』の尻付には「左京大夫」)。宗光は俊房(1035-1121)の子であるが、兄弟師俊(1080-1142)は四六才時の子であるゆえか、叔父師忠の養子となり、右少弁→右中弁→左中弁→蔵人頭右大弁→左大弁→権中納言と昇進する一方で、藤原忠実の家司となり、その知行国の受領(丹波守、尾張守)を歴任している。丹波守となったのは三三才の時で、三年後に尾張守に遷任した直後に右少弁に補任されている。宗光の兄弟には醍醐寺座主勝覚(1086-1116、1057年生)と実運(明海、1156-1160、1105年生)がみえる(巽昌子「醍醐寺の相続にみる院家。寺家の関係の変化」、お茶の水史学五九号)。実運と『分脈』に「出雲守」(『長秋記』永久元年八月六日条に「出雲権守」とみえる)と尻付のある忠時の母親は肥後守藤原重房の娘であるが、重房は『為房卿記』寛治六年(一〇九二)二月六日条に「前肥後守藤原実房」とみえる。実運は兄勝覚のもとに入室しているが、勝覚が座主となったのは三〇才時であったが、実運は五二才時であった。実運は一時、勧修寺の寛信に師事し、其の後醍醐寺に帰ったためであった。いずれにせよ、俊房の子勝覚と実運には四八才もの年齢差があったことになる。季康の祖父宗光は師俊と実運の間に生まれた可能性が高い。
 聖観の生年は不明だが。同時期に授法した熱田大宮司家範忠の子任暁は三三才、覚伝は三七才で授法している(平雅行「熱田大宮司家の寛伝僧都と源頼朝」、『人間文化研究』三八)。聖観が三五才で授法したとすれば久安二年(一一四六)の生まれとなる。その父源季康が隠岐守に補任された候補時期としては、保元の乱後に補任された源雅範の前から可能だが、雅範は祖父宗光の従兄弟=俊房の弟顕房の子雅兼を父とし、世代が一つ上である。残るのは、中原宗家の前か、源仲綱と藤原惟頼の間となる。以上のように、源季康が隠岐守に補任された年次の確定には史料が不足しているが、季康が村上源氏季時の子であることは間違いない。

 

院分国ヵ近臣知行国ヵ3

  本来の話題に戻すと、院分国の受領である場合と、院司受領である場合の違いとして、後者は国守本人が国務を行うのに対して、前者は、院司(院庁別当・判官)が国務に関与することがある。後者は、有力な院近臣である国守の父が知行国主である場合があり、父の死亡が国守の交代につながることが多いが、前者は原則として国守の交代はない。出雲守藤原能盛は後白河近臣であったが、出雲国務はどのように運営されたであろうか。次いで周防国に遷任しているが、前任者藤原季能(美福門院の乳母夫俊盛の子)の時点では周防国は院分国であった。また、季能の遷任先の讃岐国も院分国であった。藤原能盛が出雲守に起用された背景は何であろうか。以前、清盛の側近藤原能盛(壱岐守、安芸守)と後白河の側近能盛(出雲守、周防守)は同一人物であるという過去の説が正しいとする方からメールをいただいたが、そこでは出雲大社造営のため、安芸守時代に厳島神社造営経験のある能盛が起用されたとの説が示された。ただし、両人は別人なので、この説は成り立たない。逆に任期四年満了以前に周防守に遷任した理由が、大社造営が開始されることであったと思われる。
 能盛が初任受領として出雲守に補任されたのは承安四年一月二一日の除目であった。長らく出雲国知行国主であった藤原朝方とその子朝定を石見国に遷任させているが(『玉葉』には「出雲被推替石見了」とある)、能盛遷任後、両人を出雲国に戻している。これこそまさに、大社造営を行うための人事であった。承安四年二月一一日には、権右中弁であった吉田経房が参院し、「雑事八ヶ条」を奏しているが、その一つは「最勝光院庄事」であった(『吉記』)。次いで二月一七日には「雑事六ヶ条」を奏しているが、その中に「大野庄使事」とある。出雲国大野庄は最勝光院領であり、この時期、大野庄への使者派遣が問題となっていた。最勝光院は後白河院の御願寺で、女御建春門院滋子と子高倉天皇を本願として、承安三年に落慶法要が行われている。まさに大野庄の立券と最勝光院への寄進が進められ、そのための使者派遣が重要な課題であった。院近臣能盛の起用はそのための体制整備であった。この間は後白河院庁と建礼門院庁の役人が出雲国と都の間を行き来していたであろう。以上のように出雲国が後白河の院分国であった可能性は高い。大野庄の庄官に起用されたのは、畿内の武士紀季重の子季康であった。その兄弟が東大寺再建の大勧進となった俊乗房重源であった。重源は最勝光院落慶時点で五三才であり、実際に大野庄に派遣されたのは季康の子季明であろう。隣国隠岐は仁安元年から二年にかけて女院庁判官代中原宗家が国守で、仁安二年末に伊豆守源仲綱(頼政嫡子)と相博しているが、承安二年に仲綱は再び伊豆守に遷任している。安元二年正月、隠岐国は松殿基房の知行国となり、勧修寺流の藤原惟頼が国守に補任されているが、仲綱と惟頼の間の隠岐守も女院関係者であった可能性がある。

 

2020年2月11日 (火)

一条能保と源隆保

 「考察(三)」で述べられていた中で、訂正が必要な点を一点指摘しておく。氏は文治二年(一一八六)六月二八日に一条能保が讃岐守を治部少輔源隆保に譲ったとの記事から、能保が讃岐国知行国主となったとする(隆保について、「藤原光能について」では藤原隆季の子隆保としていたが、訂正する)。隆保は村上源氏師忠の孫師経の子で母が熱田大宮司季範の娘であることから、隆保の起用には同じく季範の娘を母とする源頼朝の推挙があったとも考えられるとする。ここまではよいが、次いで、『分脈』の隆保従兄弟隆暁の尻付に「讃岐守能保為子」とあるのを、隆保の尻付が誤まって記されたものとも考えられるとしている。最初に問題なのは、隆暁の尻付の意味であり、「隆暁が能保を養子とした」との意味なのに、氏は逆に解釈している。以下のように、この尻付は隆暁のものであり、隆保とは無関係である。この点も氏の詰めの甘さである。隆暁は保延元年(一一三五)の生まれで、一条能保は義兄(妻坊門姫の兄)源頼朝と同じ久安三年(一一四七)の生まれである。能保は三才で父通重が死亡したため、隆暁の養子となった。
 東寺長者になった勝宝院三世大僧都隆暁の祖父は摂関家家司にもなった師俊の兄師隆で、隆暁の姉妹には歌人として知られる「皇嘉門院別当」がいる。隆暁は建永元年(一二〇六)に七二才で死亡しており、皇嘉門院別当の弟であろう。彼女は崇德天皇の中宮聖子(皇嘉門院)に仕え、その死後も女院の弟九条兼実の歌会に参加している。隆暁の父俊隆の姉妹には、持明院通基の妻となり、通重を産んだ「待賢門院官女」(上西門院乳母一条)がいた。隆暁はこのような関係を背景に、従兄弟である通重の遺児能保を養子にしたと思われる。
 一方、隆保の生年は不明だが、父師経は藤原為隆の娘を母とする俊隆の同母弟で、上西門院乳母一条の母も同じであろう。隆保には崇德天皇の後宮に入った姉もいたが、隆保はその活動時期からみて、姉、さらには従兄弟である隆暁とは一世代以上年下で、能保よりも年下であった可能性が高い。能保が隆保を養子としたので「保」の一字が共通なのではなく、隆保もまた隆暁の庇護下に入ったため、父師経ではなく、伯父隆暁の一字「隆」をその名に付け、且つ、「保」の字を能保と共有している。
 以上のように、一条能保は叔父隆暁の養子となり、源隆保は年長の従兄弟である隆暁の養子となった。一緒に育ったが故に、一条能保の知行国讃岐の国守に、隆保(やや年上か)が起用された。隆暁の姉が皇嘉門院に仕えたのも、摂関家との関係ではなく、持明院通基を介した待賢門院・崇德院と関係が前提となった。また、能保が頼朝の妹で藤原清隆・光隆父子のもとで育ってられた坊門姫と結婚したのも、前述のように、両人とも待賢門院並びに崇德院との関係が深かったからである。

 

院分国か近臣知行国か2

 「考察(三)」では、藤原忠隆が国守であった丹後(正しくは丹波。氏の論文には誤植が大変目立つ)国の知行国主は父基隆であるとの五味氏の見解を、基隆が申任じたものではなく院の意思であり、忠隆が伊予守に遷任した直後に基隆が出家しても、忠隆の地位に変更がなかったことから、基隆は父として後見していただけだとする。忠隆が「丹波守」に補任されたのは一〇才、従五位下の時であり、伊予守に補任されたのは二七才、正四位下であった。知行国の国守は年齢、官職において国守の条件を満たしていないことがままみられる。丹波守忠隆はこれに当てはまるが、伊予守忠隆は年齢面でも官職でも、父の知行国でなくても補任されるものである。
 氏は忠隆が子基成を申任じた陸奥国と、大蔵卿を辞して子家頼を申任じた長門国は忠隆の知行国である可能性が高いとしつつ、久安六年七月に忠隆が死亡しても停任されていないことから、知行国とするには検討の余地があるとする。康治二年末に二〇代前半と思われる基成が陸奥守に補任されているが、久安五年には藤原兼忠が陸奥守に見任しており、基成は一旦陸奥守を辞している。次いで基成は二度目の陸奥守となったが、久安六年八月一三日の父忠隆の死亡により喪に服し、一一月三〇日に復任している。この時点で基成は三〇才前後であり、二度目の補任の時点では父忠隆の知行国ではなかった。一方、家頼の同母兄信頼ですら父忠隆の死亡時に一八才であり、国務を担うには難があり、武蔵守であった信頼が長門国知行国主の地位を継承することも不可能である。ただし、信頼と家頼には母方の従兄弟藤原光頼の支援が可能であった。光頼は顕頼の嫡子で、従四位上右中弁の地位にあり、翌七年正月には正四位に叙せられている。藤原顕隆の娘を母とする嫡子隆教(ただし、永治二年に死亡)、藤原季孝の娘を母とする庶兄基成に対して、顕頼の娘を母とする両人は「頼」をその名に付けているように、母方の支援下にあった。
 前述の吉田経房の例と同じである。源有賢の娘を母とする兄信方が、父光房が知行国主であった伊豆国の国守であったが、早世したため、藤原俊忠の娘を母とする一〇才の弟経房が伊豆守となった。当然、父光房が知行国主である。ところが、三年後には過労により権右中弁であった父光房が死亡した。それにもかかわらず一三才の経房が伊豆守であり続けたのは、妻の実家である平範家の支援が可能であったからである。範家は光房の跡をうけて左少弁から権右中弁に昇進している。範家の母は光房の一五才年上の姉であり、範家は二八才年上の経房の従兄弟でもあった。さらに、範家の背後には妻の父藤原清隆の存在があった。このような支援が可能であったため、経房は伊豆守であり続けることが可能となった。このように知行国制はファジーな制度であった。

院分国か近臣知行国か1

 ようやく菊池紳一氏「後白河院政期における知行国についての一考察(一)(二)(三)」を通読した。複写原稿は字が小さく読みにくかったが、デジタル化してパソコンの画面で拡大して読むことができた。誰も敬遠しがちなテーマに関する貴重な成果ではあるが、前にも述べたように、上島氏と同様、ファジーな知行国制に公式を当てはめようとして、説明の随所に矛盾が出てしまっている。
 院政期の知行国については五味文彦氏の研究があるが、院分国・女院分国をどのように理解するかという課題が残されている。菊池紳一氏は院(女院)分国とは院(女院)の知行国であり、近臣などの知行国との間に違いはないとする。院分国であることの明証がある例は希であるが、院分国と院近臣の知行国との間には違いがあるのだろうか。本ブログでは承安四年正月に後白河院の寵臣藤原能盛が出雲守に補任された時点で、出雲国は院分国となったとの説を示した。その際に国守に補任された人物が後に公卿となった場合は『公卿補任』にその経歴が記載され、「院分」の注記があることで、院分国である事が確認できるが、能盛は公卿にはならなかったため、確認できない。
 菊池氏は「考察(二)」で保元元年九月八日に德大寺公能の子で一〇才の実守が美作守に補任されたことについて、公能が永暦二年八月一一日に死亡したにもかかわらず、実守がその後も在任したことから、美作国は公能が知行国として給与されたものではあるまい、としている。その前段で三条家の知行国について、父実行より先に死亡した子の公教・公行にその所見がないのは、家長実行が知行国主であったからとしている。そのことを踏まえれば、公能の死後、知行国は新たに德大寺家の家長となった嫡子実定が継承したとすべきであろう。弟実守は一五才であり、二三才ながら前年七月二四日に中納言に昇進していた実定は十分に国務を担え、知行国主の資格があるのである。菊池氏は実守が補任時には実能が在世中であるとして、この時点で公能が知行国主とはなりえないと述べるのみである。このあたりに氏の詰めの甘さを感じる。

 

2020年2月 7日 (金)

益田氏と高橋氏2

 毛利氏と高橋氏の関係に戻ると、乱終了後、毛利氏優位のもと和与が成立しており、この状態は一六世紀初めまでは維持されていた。高橋民部少輔元光と同治部少輔弘厚が毛利弘元から一字ずつを与えられている。その弘元が永正三年に三九才で死亡すると、嫡子興元が一五才で当主となったが、高橋氏の女性を妻とし、二四才となった永正一二年には嫡子幸松丸が生まれている。その三年前には安芸国人九名により一揆契状が作成されているが、そこに「毛利少輔太郎興元」と「高橋民部少輔元光」がみえる。元光が高橋氏惣領であったことと、官職の有無から興元より年長であったことがわかる。一方、永正八年九月二七日には「高橋治部少輔」(弘厚)が八月二四日の船岡山合戦の感状を将軍足利義尹から与えられており(高倉家文書)、弘厚もまた興元より年長であった。永正一二年三月二九日の備後国合戦で元光が討死すると、弘厚の子大九郎興光が元光跡を継承している。興光がすでに元服していることから、弘厚は毛利興元より一〇才以上年長であった可能性が高い。また、興光が「大九郎」と呼ばれていることから、元光の死亡前からその後継者となっていた可能性が高い。具体的方法としては元光の娘との結婚もありうる。これと両者の名前を勘案すると、元光が兄で、弟が弘厚であった可能性も高いといってよかろう。興元の妻がその姉妹であることも同様である。
 以上、質問をきっかけに再検討したが、三人が兄弟姉妹である可能性は五割以上、その父が「久光」である説は第一位だが五割未満との見解に変わりはなかったことになる。ただし、益田氏と高橋氏の関係については情報が十分ではなく、今回、加筆・修正した。これに対して、命千代を元光に比定した説の可能性は限りなくゼロに近く、なぜこのような説が生まれ、それを批判する人がいなかったのか不可思議である。石見国については、一五世紀初めまでは関連史料の分析を完了しているが、それ以降についてはなおまだら状態であり、『合戦』の原稿もバージョンアップしていく余地が残されている。安芸国についての検討は、石見国と直接関係ある部分のみに留まっている。今回、その作業を行うことができた。とはいえ、ひさしぶりにこのテーマについて考えたこともあり、頭の切り替えが十分できたか不安である。
 毛利氏と高橋氏の関係は、興元と子幸松丸が二代続けて早世したことと、武田氏と結んだ出雲国の尼子氏の勢力が安芸国に及んだことで変化する。今回はここまでとしたい。

益田氏と高橋氏1

 『島根の合戦』中の「藤掛城合戦」について、安芸高田市の担当の方から質問が来たので、二年ぶりに考えてみた。忘れないために以下のメモを作成してみた。主に高橋元光と弘厚、さらには毛利興元との間に幸松丸を産んだ女性とその父親についてであった。
 系図の記載も様々であったが、最も可能性の高いものとして、三人は兄弟姉妹で、その父は「久光」であるとの説を採用し、記述した。とはいえ、「久光」については、他の説より可能性があるというもので、数字で示せば五割未満のものである。「某」とすればより正確かもしれないが、そのあたりは難しい。一方、三人が兄弟姉妹である点については可能性五割以上と考えていた。これ以上の細かい数字は提示できないし、しても無意味であろう。
 文明年間に高橋氏惣領大九郎を引退させ、一族の命千代が当主とされた(吉川380)。その背景は、応仁の乱で大九郎が西軍方となったことであろう。文明三年一月には幕府が安芸国で西軍方に転じた武田元綱の退治を東軍方国人に命じている。大九郎も武田氏に与同した可能性が高い。安芸国には上京して畿内での戦闘に従事していた国人もいたが、東西両軍の間で揺れ動いていた。西軍の中心である大内政弘は一四世紀後半以来、安芸国にも影響力を持っていた。命千代は文明三年初めから東軍方として安芸国内での合戦に参加していたが、毛利豊元は大内氏との関係で西軍方であった。そうした中、同三年閏八月一五日に安芸・石見の東軍方国人七名(広島県史年表PDF版には「75名」とあるが誤植であろう。公開する前にチェックがなされていないのは問題である)が命千代に武田氏討伐を促したのである(吉川381)。
 『合戦』では380を381に先行するものとして、文明三年に比定したが、毛利氏が西軍から東軍に戻った後のものであり訂正する。毛利氏は文明八年五月に当主豊元が死亡している。前年の一一月には豊元が嫡子弘元に所領を譲っており、このあたりから状況が変化してきた。同八年後半には京都でも東西両軍の和平の動きがみられ、翌九年一一月に大乱は終結した。問題は安芸国内で激しく戦ってきた国人間の関係である。乱の終結により、所領を奪われた側は返還を求めるが、奪った側は既成事実化を図る。高橋氏と毛利氏の間で和与が成立し命千代が大九郎に代わって当主となったのはこの頃であろう。
 381に益田氏がみえないのは西軍方であったからであるが、翌文明四年冬には東軍に転じ、所領の安堵を受けている(久留島典子氏論文)。文明六年一二月には幕府が命千代を含む国人六名に長野庄内の所領で益田貞兼に合力するよう命じている。これをうけ、文明八年九月一五日には命千代と兼堯・貞兼父子の間で相互扶助の契約が交わされている。高橋氏側は多数の家臣が連署しており、この時点では大九郎に代わって命千代が当主となっていた。問題は、これが永正七年三月五日高橋元光契状の冒頭に記された「祖父之時甚深之事」であるかであるが、『合戦』では命千代を元光の父とした。この点については変更の必要はない。文明八年の契約は大乱が石見国内では終結した時点のものであり、両氏の間に特筆すべき課題があったわけではない。また、『合戦』の系図に示したように、これ以前に高橋氏一族の鷲影氏(阿須那庄内に鷲影城ある。『合戦』の地図参照)が長野庄内上吉田に所領を得ていた。

 

2020年2月 2日 (日)

佐々木吉田氏系図3

 厳秀の子太郎義基は厳秀の前妻の実家河内氏の養子に入り、次郎義久(同母弟)、三郎義宗(母不明)は佐々木義清の養子に入り、四郎泰秀(母は後妻布部氏)が吉田庄を継承し、宗泰(母不明)は湯氏を称したとある。子達は処罰を免れたが、兄達よりも乱との関わりが薄かった四郎泰秀が継承を認められた。泰秀は正治二年(一二〇〇)の生まれで、乱の時点では二二才であった。前述の義清の嫡子政義は一四才であり、厳秀の子達が年上であった。
 ただ、泰秀の立場も微妙で、系図では隠岐国へ配流される後鳥羽院の供奉を行ったが、父厳秀との関係で出雲から隠岐への渡海は警戒され許されなかったとする。母が布部氏の娘であることは前述の通りであるが、泰秀の妻も出雲国能義神社神官物部慶俊の娘であり、その間に嫡子秀信が生まれている。その後、泰秀は「加地筑前守重綱」の娘を後妻としたとあるが、佐々木氏系図では加地信実の嫡孫とされる筑前守実綱の誤りであろう。次いで秀信も加地左衛門尉輔房の娘を妻としたとあるが、長綱(実綱子)の子で加地庄報恩寺別当であった。
 吉田氏系図とは旧島根県史編纂の際に筆写された県立図書館所蔵謄写本で、①「備後国福山藩吉田家系図」とその②抄本(広瀬町山口幸五郎氏所蔵)、さらには吉田庄内の③「吉田八幡宮古系記写」の三冊がある。②は中世末まで写したもので、③は吉田氏が出雲国を拠点としていた一五世紀前半までを記しているが、①②に記されていない内容を含んでいる。それは吉田氏が八幡宮の祭祀にかかわった関係で情報が残ったもので、①②の影響を受けていない。例えば、厳秀が京方であったことは①②も記すが、合戦で負傷したことは③にのみ見え、それゆえに乱の直後に死亡した原因が判明する。また、泰秀が隠岐渡海を許されなかった理由と泰秀の意図についても①②にはないが、詳細に述べているし、①②で泰秀が枕木山鰐淵寺に葬られたと記すのに対して、③では枕木山に葬られたことと、鰐淵寺の鐘銘に「吉田左衛門尉泰秀入道」とみえることを分けて記している。群書類従本佐々木氏系図に収められた六郎厳秀とその子孫の系図からは想像できない内容が、吉田氏系図には記されているが、その信頼性は高いとすべきである。これがなければ、五郎義清が守護となった出雲国内に厳秀も承久の乱の恩賞として吉田庄地頭に補任された程度しか考えられないが、実際には四郎高綱と同様、鎌倉初期に地頭となり、且つ本人は承久京方となり死亡したが、その子泰秀が継承することを認められたのであった。

佐々木吉田氏系図2

 話を吉田氏に戻すと、吉田氏は秀義の子六郎厳秀を祖とするが、その生年は義清と同じ応保元年(一一六一)である。母親が違えばありうることであるが、当時の秀義が渋谷重国へ婿入りした状況にあったことからすると、その可能性は低い。今回、吉田氏の系図により、厳秀の母も渋谷重国の娘であることが確認できた。結論を言えば、五郎義清と六郎厳秀は双子であったことになる。ただし、厳秀はその名からわかるように天台僧となった。系図そのものは一〇年ほど前に存在を知り、二〇一一年一月三一日にアップした当ブログ「出雲佐々木吉田氏について」の中で、厳秀が鎌倉初期に出雲国吉田庄地頭となり、現地の有力者布部氏の娘との間に生まれたのが文永八年結番帳にみえる「吉田四郎左衛門尉」であることを述べている。泰秀が地頭であった吉田庄は近衛家領で、出雲国では佐陀庄、出雲大社領、宇賀庄に次ぐ四番目の大規模庄園であった。『松江市史』編纂時にはそれを記した『福山藩吉田家系図』の存在を西田友広氏に伝え、氏が分担した通史編中世の中でも述べられている。ただし、そのメモにその後遭遇せず、再度確認しなければならないと思っていたが、ようやく再確認したので、この原稿を書いている。
 以前には認識していた記憶はないが、改めて読みなおすと、厳秀が承久の乱では京方となり、乱後は関わりの深い三井寺遠行坊に潜んでいたが、乱での手負いがもととなり、七月五日に死亡したことが記されており、驚かされた。佐々木氏では太郎定綱の嫡子広綱、次郎経高が京方となっており、厳秀もその経歴から京方となったと思われる。三郎盛綱の子についても、義絶されていた信実が乱の勲功で復活し、その子孫は越後国加持庄を苗字の地としていく。一方、兄に代わって嫡子となった弟盛季は建仁年間の合戦で死亡したことが記されているが、その死亡により後継者となった弟盛則の一族についてはほどんど記載がない。乱で京方となり没落した可能性が大である。承久の乱の結果、嫡子広綱に代わって定綱の庶子信綱が勲功の賞として近江守護と所領の継承を認められたが、佐々木氏惣領は出雲・隠岐守護となった義清とすべきであろう。結果的にはその子孫である塩冶高貞が謀反の疑いで討伐されたことで、信綱系の六角氏と京極氏が佐々木氏の中心として浮上した。

 

佐々木吉田氏系図1

 鎌倉期の出雲守護は安達親長等一部を除けば、佐々木氏が補任された。特に承久の乱後は佐々木秀義の子五郎義清とその子孫が代々守護職を継承している。このような例は少ないが、その背景には、佐々木義清が、長井時広とともに隠岐に配流された後鳥羽院とその子雅成親王(順徳の同母弟、但馬国へ配流)、頼仁親王(備前国へ配流)の監視という重要な役割を担っていたからである。後鳥羽院は延応元年に配流先の隠岐で死亡し、佐渡へ配流された順徳も仁治三年に死亡したが、一時は実朝死後の四代将軍の有力候補となった雅成、頼仁両親王は健在であった。雅仁は順徳死亡後の寛元二年に一旦は都へ帰えされていたが、幕府内での宮騒動と並行して朝廷内で後嵯峨に代わる次期天皇に擁立せんとの風聞が立つと、その動きの中心であった九条道家(将軍九条頼経の父で、順徳の子仲恭の外叔父)が失脚されられ、親王も但馬国の配流地に戻された。雅成と頼仁はそれぞれ配流地で死亡した(建長七年、文永元年)。
 宝治元年の新日吉社小五月会流鏑馬により、長井時広の子泰重が六波羅探題北条重時に次ぐNo2、佐々木義清の子泰清がNo3の地位にあったことがわかる。正嘉元年にも、両者が探題北条時茂に次ぐ地位にあったことがわかる。時広は幕府の要職に就くことはなかったが、森幸夫氏が説く六波羅探題の整備とともに、配流者の警固がその重要な役割であった。時広が死亡した直後に嫡子泰秀が評定衆に補任されているが、父の役割を継承したのは弟泰重であった。同様に、義清から出雲守護を継承した嫡子政義は鎌倉にあり、弟で隠岐守護を継承した泰清が六波羅にあったが、政義が三浦泰村との対立で無断出家したことで、計画は見直しをせまられた。両家の第二世代の四人の中で政義のみ北条泰時の諱名を得ていないのは、泰秀より四才年長で、貞応三年の伊賀氏の乱で泰時の地位が確立する前に元服した事ぐらいしか思い浮かばない。そうだとすれば、政義は三才年長である北条政村と密接な関係を持っていたことになる。泰清は、嫡子時清を鎌倉に置いて、自らは西国を活動の中心とした。時清が引付衆を経て、父泰清が死亡した翌年の弘安六年に評定衆に補任されたのは長井泰秀のケースと同じである。

 

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