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2020年1月27日 (月)

嘉応元年の播磨守?1

 院政期の播磨守といえば、伊予守、讃岐守と並んで有力院近臣の指定席として知られている。しかし、よくみるとそれは白河・鳥羽院政期の事で、後白河院政期には状況が一変している。なにより、「国司一覧」(『日本史総覧』)では仁安三年(一一六八)三月八日から治承二年(一一七八)閏六月七日までの間、誰が播磨守か不明である。
 後白河院政期初期は藤原信西とその子達が弁官と受領の要職を占め、それが要職から排斥された公卿の反発を生み、平治の乱が起こり、信西の子達は一時的に失脚した。その後、復帰した子もあったが、失脚前とは状況は一変した。反発した公卿の中でも、待賢門院との関係を有した人々が最も不満を抱いていた。それらの人々の中には近衛天皇・美福門院との新たな関係を獲得した人と、そうでない人々がおり、後者にとっては、崇德院政の実現に期待するところ大であったが、保元の乱で復権の機会は一旦失われた。
 前述のように、近衛の即位そのものに反発したのではなく、その際に待賢門院に仕えていた人々の一部が天皇を呪詛したとの容疑をでっちあげられたことに反発したのである。即位の年の年末の行事をサボタージュしたのは異母弟でありながら西園寺通季との関係の深かった季成ら閑院流の一部の人々で、半年間にわたる停任処分を受けた。次いで、その処分が解除される時期に行われた行幸でもサボタージュした人々がいた。停任という重い処分を受けた藤原忠隆の嫡子隆教は三ヶ月の処分解除後ままもなく死亡している。隆教の母の栄子は藤原顕隆の娘で崇德天皇の乳母であった。保元の乱の前後から台頭した異母弟信頼の母は、顕隆の嫡子顕頼の娘であった。軽微なものであったが、隆教とともに、平忠盛の嫡子家盛や藤原家成の嫡子隆季も処分されている。家盛はその後、久安五年に鳥羽院の熊野詣に参加して体調を崩して死亡した。元木泰雄氏は隆季が左馬頭を長らく務めたことを評価するが、家成の嫡子としてはその昇進は十分とはいえなかった。保元元年には乱の恩賞で左馬権頭に補任された義朝が、不満を示したことにより、隆季を左馬頭から辞任させ、義朝を補任した。これに対して後白河天皇のもとで、信頼のあとを追うように台頭したのが隆季の異母弟成親であった。成親の同母弟盛頼は尾張守在任中に、平治の乱で死亡した源義朝の墓の維持に便宜をはかったとして、幕府成立後の頼朝の支援を受けて所領を得ているが、盛頼の背後には兄成親の意向があった。父家成、母方の祖父顕頼はともに待賢門院と深い関係を有していた。政治史の通説では二人とも美福門院派に鞍替えしたとするが誤りで、両方との関係を維持した。近衛天皇が死亡するまでは、まもなく崇德院政の時代が来ると多くの人は思っていた。崇德が主宰する歌会に成親の異母兄隆季が参加していたことも前述の通りである。家成と顕頼は崇德院の御願寺成勝寺に所領を寄進していた。藤原清隆も成勝寺造営の中心であり、その六才下の同母弟範隆(長承二年死亡)も清隆とともに待賢門院庁の中心メンバーであった。

 

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