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2020年1月 8日 (水)

大芦浦について3

 大芦が北野末社であり、加賀庄とは独立した所領であったとの本ブログの説に対して、永禄一二年に比定できる一〇月六日毛利元就・輝元連署書状(松江1275、以下松江市史中世に収録された番号で出典を記す)により多賀氏に進置かれた所領の中に「加賀大蘆三百貫」とあることから、大蘆は加賀庄の一部であるとの疑問が提示されるかもしれない。ただ三〇〇貫という数字は大蘆(芦)単独では大きすぎ、「加賀・大蘆」と解釈すべきである。同年一二月二〇日には元就・輝元連署書下(松江1300)によって、天野隆重に進置かれた所領の中に「加々三百貫」とみえ、翌一三年に比定できる五月一〇日大野氏知行分書立(松江1330)にも「おあし三百貫」とみえる。三百貫という数字が一致する事から、「加賀大蘆」「加々」「おあし」とは同一の所領と考えられる。「加賀」といっても「円福寺」「野波」が別にみえることから加賀庄全体ではなく、加賀浦を中心とする地域を意味している。隣接する大蘆浦を併せて「加賀・大蘆」と呼ばれたり、加賀に代表させて「加々」と表記したり、大蘆に代表させて「ああし」と呼んだものである。ここから分かるのは、大蘆浦が加賀浦に匹敵する存在であったことである。単純に面積で言えば加賀浦が広いが、風待の機能は大蘆が上回っている。
 なお、不満な向きには、天文二二年加賀庄内熊崎天王奉賀覚書(松江1027)と天文二三年加賀庄内北講武八幡宮棟札写(松江1030)に、奉賀銭を分担する加賀庄内の所領がみえるが、その中に大蘆はみえないことを挙げよう。前者はこれも一種の天神であるが、菅原道真を祭神とする天満宮ではない。大蘆にも天満宮の南東側の垣之内に天王社跡があり、字「上天王」「下天王」が残っている。この垣之内には字「城山」(じょうやま)「的場」もあり、大蘆を支配する国人の館があったと思われる(後述)。さらに言えば、永享二年一一月一日杵築大社三月会正長二年分一番饗御神物引付(松江547)にも加賀庄を構成する所領が記されているが、そこにも三つ浦(御津)はあっても大蘆はみえない。そこにみえる加賀庄、長田東郷、枕木保、仁多郡布施社はいずれも結番帳の一八番に編成された所領である。これに対して北野末社(大蘆)は一番に編成されていた。ただし、後醍醐天皇が隠岐を脱出した際の勲功により、加賀庄地頭土屋氏の一族が大蘆を与えられ、大葦(蘆)氏を称したことは前述の通りである。引付には神物を負担した人物として「か々衆小華北垣兵衛」がみえるが、この人物は大葦内北垣(天満宮が所在)を苗字の地とする一族で、加賀庄内に所領を与えられていた。前述の垣之内の館の主であろうか。
 以上、関係史料をみれば、大蘆が加賀庄内の所領ではないことは明白であろう。

 

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