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2020年1月17日 (金)

神社の名称変更2

 一つの名称をめぐって複数の神社が名乗りをあげ、争奪戦がくりひろげられたこともあった(『八束郡誌』)。代表的なものに、「佐久佐社」をめぐる大庭・六所神社と佐草・八重垣神社の争い、「宍道社」をめぐる来待・石宮神社、宍道・三崎神社(現在は氷川神社に合祀)、佐々布・大森神社の争いがある。後者は三社それぞれ得失があり決着しなかった。これに対して、前者は明治5年に八重垣神社に軍配があがり、八重垣は名称を佐久佐神社に戻して(主な祭神とした)新たな神社制度の郷社に列せられた。一方敗れた六所神社は一つランクが下の村社にとどまった。
 次いで大正11年に佐久佐神社は社名を八重垣神社に戻し県社に昇格し、六所神社は3年後の大正14年に伊弉諾外6神を祭神として県社に列せられた。風土記研究者の多くは、六所神社のある大草は風土記に「青幡佐久佐命」とあるので、本来は「さくさ」と読み、佐久佐命を祭る佐久佐神社は大草にあったとする。
 なぜこのような問題がおきたかといえば、中世において佐久佐社の場所が移動したからである。古代の大草郷は八雲町の大半も含んでいたが、中心は北部の大草・大庭・佐草地域にあった。とりわけ大草には出雲国府があり、大庭には神戸と大草郷庁があったことが風土記からは読み取れる。この地域が狭義の「大草」(さくさ)であったと思われるが、中世へ移行する過程でさらに三地域に分かれた。
 その背景には意宇郡司と国造を兼帯していた出雲(臣)氏が、出雲西部の杵築に移住したことがある。10世紀以降のこととされるが、出雲氏にとっては国府のある意宇郡にも足がかりを残す必要があった。一方、国司にとっては自らの手で祭祀を含め新たな秩序を作り上げようとした。その結果が、前述のように、国司主導の大草と国造が一定の権限を認められた大庭の分割であったと思われる。
 国司主導の大草の地には11世紀頃には国内の有力神を祭った惣社が設けられ、その祭神の一つに佐久佐命もあったろうが、主役ではなかった。同時に国司は、出雲国内の有力者を在庁官人に組織し、国府周辺は府中と呼ばれる都市的空間に発展していった。また12世紀には出雲国一宮制が整備され、国造もその体制の中に組み込まれた。府中の神社も国造と関係の深い伊弉冉社を除けば国造以外の一宮神官が勤めていた。
 そうした中、国司側にとって打撃となったのは、在庁官人の多くが、1221年の承久の乱で没落したことであった。お膝元の大草郷には東国武士が地頭(文永8年の地頭は幕府に仕える医師丹波氏であり、実際には幕府が管理)として入ってきたのである。その支配は著しく弱体化し、東国出身の地頭の協力無くして府中内の神社の造営や神事は行えなくなった。一方、国造は幕府と結んで大庭・田尻地頭職を安堵され、これをテコに大草郷内の惣社と山代郷内の伊弉諾社への支配を強め、在庁官人出身の神官を追放した。国司側が伊弉冉社をはじめて神魂神社と呼んだのはこの時点であった。神魂神社は伊弉諾社と惣社の上に立つ存在となり、国造が両社の祭祀も担当した。

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