koewokiku(HPへ)

« 嘉応元年の播磨守?3 | トップページ | 佐々木吉田氏系図1 »

2020年1月29日 (水)

志々塚保をめぐって

 斐伊川の東流の問題で、寛永末の洪水で上鹿塚村で堤防が決壊したことを明らかにしたが、その前身である志々塚保は文永八年では田数二〇町七反の公領で、地頭は持明院殿(室町院。その死後、後深草院の子伏見院が継承し、持明院統という名称が定着)であった。それに対応して、一四世紀初めの室町院領目録には、武家所進地頭職の仲に志々塚上方と下方が林木庄、吉曽名(古曽志)庄、母里庄とともにみえている。文永八年以前に志々塚保地頭職は守護佐々木氏領となり、室町院に寄進されたが、室町院に寄進されたのは得分であり、実際の支配は佐々木氏が行っていた。それゆえ、乾元二年四月一一日に守護によってその一部が鰐淵寺南院薬師堂修理料田として寄進された。残っているのは沙弥信連・沙弥良恵連署坪付のみであるが、同日に北院三重塔修理料田として寄進された生馬郷内田一町と同様の寄進状によるものであった。鰐淵寺南院と北院はそれぞれ独立した寺院であったため、文書も別々に保存されたため、現時点の保存状況が違うのである。南院には寄進された料田の坪付のみ残り、北院には寄進状とそれに関連する前後の書状二通が残っているが、本来は守護佐々木貞清から料田に関する同様の文書が両院に発給されたはずである。
 文永八年の地頭は林木庄が深栖蔵人入道跡、古曽志郷が中村太郎馬允、母里郷が河内二郎・広四郎であり、これ以降に守護佐々木氏領となった地頭職が室町院の寄進され、林木庄、吉曽名庄、母里庄と呼ばれたものである。
 志々塚保の関連史料として、室町院領目録とともに、一四世紀中頃の①塩冶八幡宮領注文と②神主明仏譲状がある。ともに志々塚上分五反と林木東西分五反が神主分としてみえているが、①には「勘落」と記されている。②には塩冶高貞(近江守)と高貞滅亡後、新たに塩冶郷の支配者なった弟時綱(三州=参河守)からの寄進が記されており、志々塚上分と林木東西分は高貞以前の守護佐々木氏により寄進されたものである。志々塚保については前述のとおりだが、林木庄も元応二年六月廿五日関東下知状で、持田庄地頭土屋忠時から大野庄内の名田を譲られた息女平氏に「前林木女」との注記がある。その意味は、忠時娘が文永八年に林木庄地頭であった深栖氏のもとに嫁いだが、その後、深栖氏が林木庄地頭職を失ったことを意味している。それが守護佐々木氏領となり、その一部が塩冶八幡宮の料田に寄進されたものである。
 これに対して生馬郷の関連史料としては元応元年閏七月九日六波羅御教書がある。『大社町史』並びに『松江市史』史料編では関東御教書としているが、連署している陸奥守北条維貞と前越後守北条時敦は六波羅探題北方と南方であり、訂正しておく。『鎌倉遺文』の文書名を検討することなくそのまま使用したものである。自身が単独で担当した『竹矢郷土誌』の中世の項でも同様の誤りをしているが、今回は編纂所データベースで両者の他の文書の花押と一致することを確認した。出雲国知行国主左大臣洞院実泰の雑掌重氏が、塩冶・巨曽石(古曽志)・美保・生馬郷等の下地と年貢について訴えたのを受けて、探題が守護貞清に代官を出頭させ明申すよう命じている。文永八年に守護領であった塩冶・美保郷に対して巨曽石・生馬郷も守護領となっていることがわかる。

 

 

« 嘉応元年の播磨守?3 | トップページ | 佐々木吉田氏系図1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 嘉応元年の播磨守?3 | トップページ | 佐々木吉田氏系図1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ