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2020年1月10日 (金)

大芦浦について6

 次に問題となるのは、天満宮の古器物としてみえた天正二年御神鏡臺と天正一一年御祝詞箱である。願主は前者が髙井猶右衛門、後者が髙井浅右衛門で、後者には神主小具因幡藤原定因の名も記載されている。髙井氏は垣之内(36)と北垣(6)に集中し、それ以外は小具(2)と加賀浦分の新津(1)にあるのみである(『島根町誌』)。天正年間にはすでに北垣にあったと思われる。旧島根町内では野波(54)に集中する余村氏(55)に次ぐ軒数(45)である。明治九年一〇月大芦浦木実山反別地価取調帳作成時の大芦浦戸長は小柴彦七郎であったが、明治一六年七月に大芦浦字調を提出した時の戸長は髙井七右衛門であった。七右衛門は明治九年の取調帳の作成者の一人であったが、明治一一年七月制定の郡区町村編制法により、任命制であった戸長を民選に変更したことで、外部出身の小柴氏から大芦浦の髙井氏に交替したと思われる。隣接する加賀浦字調を提出した戸長も髙井蔵四郎であった。髙井氏は大芦浦東部を拠点としつつも、加賀浦にまで勢力を持つ有力者であった。その勢力は戦国時代にまで遡るもので、天正年間の古器物銘は信頼できる史料である。
 以上をまとめると、当初は一二世紀前半に天満宮が勧請されたのは大芦浦東部の北垣としていたが、西部の楡木付近に訂正する。現在、天満宮にちなむ北野姓の人々は、楡木地区の東端、濱地との境界部分に集中して居住しており、この付近と考える。楡木には日御崎社があるが、戦国期までは北野天満宮と将軍神社(上下)もあった。農業面(寛文一二=一六七二年検地帳によると、田数二六町余の内上々田=一石七斗代が三二%、上田=一石六斗代が一七%と安定している。慶安三=一六五〇年片江浦検地帳では上々田=一石六斗代が一二%、上田=一石五斗代が二六%でしかない)では東部が優位にあるように思われるが、大芦浦は漁業・流通の拠点でもあり、延宝六年(一六七八)の塩浜改帳には80ヶ所の塩浜が登録されている(楡木浜15、海鳥浜9、浜村22、小具13、垣ノ内21)。水運・海産では西部が中心であった。また、内陸部では東部を中心に木実(油木)山も多数みられた。その最多の所有者が髙井氏一族であった。

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