koewokiku(HPへ)

« 嘉応元年の播磨守?1 | トップページ | 嘉応元年の播磨守?3 »

2020年1月27日 (月)

嘉応元年の播磨守?2

 保元の乱後には平清盛が播磨守となり、次いで保元三年に清盛が大宰大弐に遷任すると信西の子成範がその後任となった。平治の乱後、播磨守に補任されたのは藤原成親の異母兄家明であった。鳥羽院近臣家成と高階宗章の娘との間に生まれたのが、隆季・家明兄弟で、成親・家教・盛教・実教の母は藤原経忠の娘であった。宗章と経忠は白河院の近臣で、その没後は鳥羽院・待賢門院並びにその子崇德天皇と密接な関係を有した。経忠とその子については「鳥羽院の高野詣」で述べた。宗章は父為章のあとを継承するかのように越中・若狭・遠江・加賀守を歴任し、鳥羽院政四年目の長承元年に加賀守を辞任することで嫡子盛章を越前守とした。盛章も同様に越前に続き土佐・伊予・尾張・遠江守を歴任して、遠江守在任中の保元元年閏九月に死亡した。その嫡子隆行は鳥羽院判官代をへて父が死亡した翌年である保元二年一〇月に一六才で従五位上に叙されているが、その後の史料は確認出来ず、早世した可能性がある(訂正:応保二年三月一九日には立后した藤原育子の中宮権大進に従五位上高階隆行が補任され、仁安三年九月一八日の禊行幸に正五位下高階隆行が供奉。嘉応元年二月一三日の皇太后宮日吉行啓にも随行。)。その姉妹は美福門院の子八条院の女官三位局であり、以仁王の妻となった。王の死後は九条兼実との間に良輔を産んでいる。藤原隆季の母は盛章の姉妹であり、隆季は三位局の従兄弟であったが、信西とその子達が失脚したことと、平清盛の娘を妻としたことで、平治の乱後は急速に出世し、その一方で嫡子隆房と庶子隆保・隆清を国司として二〇年以上にわたって因幡国知行国主を務めた.因幡国の長田実経が平家に同心しながらも、父資経が伊豆国に配流される頼朝に一族の資家を同行させた功により、頼朝から本領安堵を受けた事とその背景については前述の通りである。
 話を播磨国に戻すと、隆季の一才下の同母弟家明は正五位下、従四位上、正四位下に暲子内親王(後の八条院)給で叙されているように、美福門院に接近することで昇進し、播磨守に補任されたが、その後播磨国は応保二年(一一六二)に藤原忠通の子基房の知行国となり、摂関家家司として知られる藤原邦綱が国守に補任され、次いで永万元年(一一六五)には藤原隆教の子隆親に代わった。隆教の姉妹が基房の異母兄基実の妻となり、永暦元年(一一六〇)には嫡子基通が生まれている。このような中、隆親も摂関家との関係を強めたのであろう。問題はその後一〇年間で、播磨守は不明である。一方、「知行国主・国守一覧」(『中世史ハンドブック』)では、嘉応元年三月一四日に某基隆の播磨守見任を示す史料があるとするのである。

« 嘉応元年の播磨守?1 | トップページ | 嘉応元年の播磨守?3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 嘉応元年の播磨守?1 | トップページ | 嘉応元年の播磨守?3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ