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2020年1月19日 (日)

記事の補足4

 話を本庄に戻すと、神社明細帳によると、八幡宮は誉田別命とともに、佐々木貞清霊神を祭神としていた。明治四二年には熊野神社に合併されている。『郡村誌』には「村ノ東南」となったが、本庄町の西側で、熊野神社に隣接した地にあった。佐々木貞清は頼泰の嫡子で出雲守護となるとともに、近江守にも補任されている。その名と官職は父頼泰ではなく、祖父で本庄で頓死したとされる泰清を継承している。長海本庄は待賢門院御願寺円勝寺領であったが、文永八年の地頭は将軍側近の持明院基盛であった。持明院氏は不遇な時代の後高倉院(後鳥羽院の同母兄守貞親王であったが、平家の都落ちに同行させられたため、都に残った後鳥羽が安徳天皇に代わる天皇となった。後鳥羽を養育していたのは、藤原範季とその妻平教子であったが、教子は日野資憲の娘と平教盛の間に生まれていた)を支え、院は持明院基家(通基の子)の娘を妃として持明院(通基の父基頼の御堂を通基が整備)を御所として「持明院宮」と呼ばれていた。
 承久の乱で後鳥羽院が隠岐に配流され、後高倉院の実質的院政が開始されたが、知行国主源有雅が御鳥羽側近で、守護安達親長も京方であった出雲国は有力在庁官人や庄官が京方で没落し混乱状況となった。その際に後任の出雲国知行国主となったのは持明院家行(基家の孫)であり、家行は守護佐々木義清を出雲守に起用して体制の整備を行った。基家の兄で通基の嫡子となった通重が早世したため、その嫡子一条能保は出世が遅れていたが、その間に同じ待賢門院・崇德院流の一員である源義朝の遺児坊門姫を妻としていた。すると、妻の同母兄頼朝が鎌倉幕府を開いたため、能保は幕府との関係を背景に、従二位権中納言にまで進んだ。持明院家行は後高倉院に近いだけでなく、一条氏を通じて幕府とのパイプを有していた。一条氏は能保の嫡子高能が早世し、その兄弟尊長は承久の乱の首謀者の一人となり、高能の子には京方となった人物もいたが、北条時房の娘を妻としていた嫡子頼氏は乱の際には京都を脱出して鎌倉に逃れ、事態の報告を行っている。

 

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