koewokiku(HPへ)

« 二つの横田神社4 | トップページ | 記事の補足1 »

2020年1月18日 (土)

二つの横田神社5

 長海庄は一二世紀前半に待賢門院の御願寺円勝寺領として寄進・立券された広大な荘園で、その南端が「上宇部尾」、東北端が「下宇部尾」であった。南浦は長海庄分(下宇部尾)と美保郷分(森山)に分割されたと思われる。荘園と公領に分かれたとはいえ、両者の関係は継続し、それを示すのが両社の境界付近にあった美保神社と横田神社への信仰であったが、戦乱などの影響で、美保神社が先行して現在の横田神社の地(天正一〇年には南浦)に遷り、遅れてそこに横田神社が合社とされた。そのため、下宇部尾村の人々にとっては、神社との距離が遠くなった。次いで両村の間で神社の負担や、周辺の下草の売却代銀の分配をめぐる対立が生じ、下宇部尾村から両社の内で従の立場にあった横田神社の移転が申請され、森山村もこれに同意した。ただし、両神社の神主は兼任で森山に居住していた。これが、明治初年に神主が森山の美保神社こそ本来の横田神社であると主張し、下宇部尾村との間に対立が生じた。
 以上、関氏が下宇部尾には門江社があったのではないかとの推定は有効ではない。ただし、関氏が引用する慶応二年の平田の住人小村重義の旅日記には、「森山へ出、代宮家立寄候所、留守。三保大明神、合横田大明神拝礼候」とあり、小村重義がこれを美保神社理解して訪れたことが確認できる。ただし、小村が当地の住人でない限り、判断する十分な情報と土地勘を持っていた可能性は低い。下宇部尾村は西で手角村と、東で森山村と堺を接しており、慶安三年検地帳の請人としても両村の百姓もみえる。ただし、その数は森山がはっきりと多い。単純に地形をみると、境界が山である森山との方が距離が遠そうだが(手角との境界は川)、前述のように、両村は長海庄と美保郷に分割されたが「南浦」としての一体性を維持していたのである。従来の横田神社をめぐる説よりはるかに根拠のある説にたどりついた。ただし、当方は当該地域の歴史の変化を探っているのであり、風土記に記載された神社が本来どこにあったかについてはほとんど関心がない。なぜなら、大半の場合は中世と近世前期の情報がなく、判断できないからである。

« 二つの横田神社4 | トップページ | 記事の補足1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 二つの横田神社4 | トップページ | 記事の補足1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ