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2020年1月18日 (土)

二つの横田神社4

 『明治三十五年由緒書』八束郡下には森山村横田神社と下宇部尾村横田神社分が収録されているが、前者は簡単で内容も不正確である。『明治一七年神宝目録』には森山分のみ収録されている。棟札の詳細なデータが記載されているが、元禄一三年以降であるのに「横田美保大明神」とあるのは改竄であることは前に述べた通りである。神社の来歴は述べられていない。これに対して由緒書の下宇部尾分は、近世と近代の風土記研究書の関係記述、対立する森山の明治二七年神社明細書も収録し、棟札とともに元禄一三年とそれ以降の証拠文書を大量に掲載している(ただし、神主名を省略した点は前述のとおり)。森山の明治二七年明細書には、尼子氏家臣秋上氏が籠城していた横田山城が落城後、横田谷から移転し、その後天正九年には今の美保神社の社殿に合祭されたとする。美保神社も以前は古関にあったのが、移転していた。美保神社と横田神社が本来所在した場所は現在の小丘陵上ではなく、別々の場所にあったことがわかる。古関は森山村の西端で下宇部尾村堺にある。また由緒書に引用されている明治一四年下宇部尾村横田神社明細書では、本来森山分堺内横田ト申地ニ御鎮座と述べている。これと前述の横田谷を踏まえると、横田神社もまた、下宇部尾村との堺(その山頂が堺)付近に鎮座しており、そのことが、美保神社と横田神社が森山だけでなく、下宇部尾の鎮守であった原因であろう。
 となると、両村の関係が問題となり、そのためには中世がどうであったかが問題となるが、風土記研究者はここを分析していない。そこで注目されるのが現在の神社がある森山村「南浦」である。これとセットである北浦は島根半島北側である。本来「南浦」は森山内の一地名ではなく、北浦に対して、下宇部尾と森山(あるいは手角もか)を含む広範囲な地名であった。それは地図をみれば一目瞭然で、森山分のみでは不釣り合いである。この南浦は南北朝期貞和二年(一三四六)の文書(松江362)に登場する。杵築大社三月会の頭役負担が順番に行われていたが、前年に事前通告がされていた。しかし当年の三月になっても頭役負担をしていない所領があり、在国司朝山氏が請求を行っていた(松江375)。その中で、事前通告をうけた「沙弥覚照」が、美保郷内の知行分は負担するが、南浦や片細(片江)、志津留伊(七類)については自分の知行分ではないので、直接に催促するように回答している。覚照は美作守護佐々木秀貞の守護代であった羽田井高泰であり、美保郷内南浦を支配する一族の娘と結婚していたが、南浦は自己の所領ではなかった。長田西郷も同じ年に頭役負担があたっており、覚照は同郷内の知行分も負担すると回答している。南浦、片江、七類はいずれも美保郷内の所領で、佐々木氏一族が支配していたが、南浦については、本来の「南浦」が美保郷と長海庄に分割されていたと思われる。

 

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