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2020年1月 7日 (火)

大芦浦について2

   大芦に行き、旧天満宮跡と大埼川辺神社の境内社を確認した。大芦川沿いで地図からは耕地が多いように読み取れるが、案外と段差が多く、平坦ではなかった。最初に大埼川辺神社の境内に入ったが、本殿の左手に境内社があった。平成元年に遷宮をしたことが石柱に刻まれていたが、境内社に関する説明文は一切なかった。階段下には「島根半島四十二浦巡り再発見研究会」が島根県観光素材造成支援補助事業をうけて設置した看板がある。同会のHPにはさらに詳細な記述があるあが、その内容の精度は高いとはいえない。なぜ「大埼」が「おおはし」と読めるのだろうか。センスの問題であるが、「大」と「端(はし)」とは相容れない言葉である。「埼」の中で代表的・中心的なものに「大」という接頭語が付けられる。「大田」は大きな田ではなく、その村落で、最初に田植えをしたり、収穫をして神に米を供える田である。大田市に五十猛という地名があるが、近世には磯竹村と表記していた。そこに大浦湊があるが、これも中心的港であるが故の名前であった。滋賀県大津も同様である。「おおはし(大端)→おあし」とは風土記研究家加藤義成氏の説のようであるが、そう考えた根拠が理解できない。それ以上に、その説に疑問を感じない人が問題である。
 十分理解していないが、神社には芦高、芦屋という名前がみられる。この場合の「芦」はどういう意味だろうか。ホーランエンヤも近世芦高神社の神事であった。芦高神社(阿陀加江神社)という表記も問題である。松江市のHPに「城山稲荷神社から芦高神社神主松岡兵庫頭のもとに御神霊を渡御する理由が、松岡が高齢で松江城への登城が困難であったためと考えられる」と書かれているのをみて愕然としてしまった。芦高神社神主は代々松岡兵庫頭を名乗っており、代替わり後は登城が可能となるはずである。それにもかかわらず、渡御しており、浅はかな解釈である。前にも述べたように、風土記にみえる神社を現在の神社に比定するのはほとんど不可能である。一方、地図をみれば、大芦が島根半島有数の風待港であることは一目瞭然である。
 話を戻すと、大埼川辺神社の正遷宮が境内社と同年かを確認しわすれた。鳥居に「平成九年十月吉日奉寄進」と刻まれていたので、この年に遷宮が行われたと思い込んでしまった。正遷宮の寄付者の名簿が掲示されてたが、最後の年月日の部分を確認していなかった。今回は小具にある大埼神社は訪問しなかったが、ネットでみると、確かに女の神様を祀った神社の作りで、千木が水平に切られている。こちらの方が周辺の人口が多いので、整備状況は良好である。
 さて、川辺神社の前に車を停めて、大芦川と県道を越えて、天満宮と宝寿寺があった場所に歩いていった。「北垣集会場」という施設があり、近所の方二人に聞いてみた。会場は元宝寿寺跡だったが、天満宮については在ったことも知らないとの事であった。寺の東側が「天神前」であり(『島根町誌』)、歩いた感じでは会場背後の平地が天満宮跡かと思ったが、確証はない。その後、三人目の人にも聞いてみたが同様であった。大芦には「北野姓」がしばしばみられ、それが大芦が中世の北野末社ではないかと思った理由であったが、大埼川辺神社の寄附名簿には北野姓が六名あったが、「氏子」ではなく、「町内」に含まれていた。その数が少ないこととともに、「氏子」でないのに疑問を持った。聞き取りによると、北垣付近には北野姓は少なく、西部の小具や楡木が多いとのことであった。ちなみに、戦国期の天満宮と将軍大明神の神主は小具氏であった。宝寿寺については、西部の浜にある瑞光寺の僧が中興の祖となった関係で、瑞光寺の末寺となっていた。天満宮の大埼川辺神社への合祀とともに、近世には西部が中心となっていたことがうかがわれる。その背景には水運の拠点としての発展があったと思われる。宝寿寺も一旦廃寺となったの瑞光寺の末寺として再興されたが、その後無住寺となり本寺に吸収される形で消滅したのだろう。その意味で、天満宮と宝寿寺は中世的存在であった。

 

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