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2020年1月 6日 (月)

大芦浦について1

 島根郡大芦浦は漁場と水運の拠点となる港湾を核とした地域である。小規模であるが風待ちの港湾としては東隣の加賀浦以上の環境といえる。『出雲国風土記』には当地の神社として西部浜の大埼社と東部大芦(森田)川西岸の大埼川辺社がみえるが(場所の移動の有無については不明)、一二世紀前半に、大芦の東端(場所はその後の情報で再検討中)となる大芦川東岸の北垣に北野天満宮の末社が勧請され、庄園として成立したと思われる。その地は後には字天神と呼ばれるようになった。一八世紀初頭の『雲陽誌』には出雲国内に天満宮が五九ヶ所みえるが、その内、近世以前に成立したことが確認できるものが九ヶ所含まれている。その中で最初に成立したのが大芦の天満宮であり、これを契機に各地に天満宮が広がっていったと思われる。大芦の西隣御津浦や南側で境を接する講武(中世は円福寺)も加賀庄に含まれており、大芦の地のみが加賀庄成立前に北野天満宮に寄進されていた。
 文永八年の杵築社三月会頭役結番帳の一番舞に北野末社、田数八町がみえ、地頭は東国御家人と思われる香木三郎入道であった。観応元年四月の文書の譲状の別紙として残された曼殊院門跡(天台宗寺院で北野社別当)所領目録には「出雲国天満宮」としてみえ、国内の天満宮の中心的存在で、唯一の天満宮の庄園であった。『雲陽誌』には大芦浦に天神宮がみえ、明治三五年島根県神社由緒書(八束郡 下)には「八束郡大芦村字天神天満宮」からの報告が含まれ、そこには宝物として、天正二年(一五七四)九月二五日御神鏡臺と天正一一年一〇月七日寄進天満宮祝詞箱が記されている。その後、天神宮は大正六年に約三〇〇メートル西側にある大埼川辺神社に合祀され、その境内社となり現在に到っている。天満宮から大芦川の上流約1.2キロから南西に分岐した谷を0.8キロ入った大芦村別所字将軍の地には上将軍大明神と下将軍大明神があるが、天正一〇年九月一九日の下将軍大明神を修復した際の棟札の記録が残っている(これは宝暦一二年の棟札を利用して作成されたものであった)。
 永禄五年九月二六日には富田城に籠城中の尼子義久から、祈念への感謝として、大芦内五〇俵が日御崎社(楡木の日御崎社が本社から勧請したものか)へ寄進されている。毛利氏が出雲国に入ると出雲国西部はその支配下に入り、毛利氏からの安堵状などが発給されているが、日御崎社には尼子氏の降伏に至るまで、毛利氏からの発給文書は残っていない。天文一一年(一五四二)の大内氏の出雲国入りの際は、日御崎社も杵築社との紛争の地である「三崎七浦」の安堵を大内氏に求めていたのとは対照的である。島根半島北側には日御崎社が勧請されている浦が目立つ。
 天満宮はあたかも大芦川沿の耕地開発を進めるための拠点となる地に勧請されたが(これも再検討中)、近世以降は水運の発展を背景に、西部の浜の地が中心となっている。海岸沿いの道の両側にあたかも町を思わせるように、家が立ち並んでいる。大芦を拠点とする船が、隠岐国から牛革を播磨国へ運んでいた史料も残っている(楡木の南屋=北野氏であった)。

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