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2020年1月16日 (木)

二つの横田神社1

 大芦で国主大明神と母坂大明神が分かれたこととの関係で、森山と下宇部尾の両方にある横田神社について述べる。典拠とするのは森山横田神社宝物文書目録(明治一七年=一八八四調査、以下では目録)と下宇部尾横田神社の由緒書(明治三五年=一九〇二調査、以下では由緒)である。天正一〇年(一五八二)には美保郷内南浦三保大明神の造替が行われている。本願は地頭仁保元保の代官森脇春保、神主は佐々木安房之助であった(目録)。南浦を含む森山は尼子再興戦で秋上氏が拠点としたが、後に毛利氏方転じ、毛利氏家臣仁保氏領となった。九年後の天正一九年(一五九一)には美保大明神・横田大明神の造立が行われており(目録、由緒)、最初に記される美保神社に横田神社が併せられる形で造営が行われていた。神主は蔵大夫であった。慶長九年(一六〇四)には三保大明神の再興(目録)と横田大明神の再興(目録、由緒)がそれぞれ独立して行われている。神主は目録では佐々木与三、由緒では嶋与三とあるが、同一人物であろう。問題は寛文三年(一六六三)で、目録に引用された棟札には横田・美保大明神の造営が行われたとし、由緒では美保大明神・横田大明神の造営とする。目録では天正一九年と両社の順番が逆であるが、由緒では同じである。由緒の「美保大明神」と「横田大明神」の順番で記すのが正しい。
 ここまでは、両社が森山にあったが、元禄一三年(一七〇〇)に横田大明神が下宇部尾に遷されている。由緒によると、森山村にある両社やその関係神社を含む八社の造営・祭礼などの負担の配分と、神社周辺の下草等を刈って得られる代銀の配分を巡り、両村の利害が対立したことが理由であった。そうした中、下宇部尾側から横田大明神で霜月に行われる下宇部尾の祭りが天候悪化により、下宇部尾の村民が参詣しがたいことがあるとして、横田大明神を下宇部尾村に遷す(勧請する)申請がなされ、森山村が了解し、元禄一三年三月に横田大明神の「勧立」が行われた。下宇部尾側からの申請には神主佐々木和泉も署名している(由緒)。ところが、目録には翌元禄一四年に横田・美保大明神の上葺が行われたとしている。由緒には神主名が引用されていないが、目録では佐々木和泉源重成とする。前述の佐々木和泉であり、両社の神主は同一であった。その後も幕末に至るまで由緒では横田大明神単独で神主名は引用されず(下宇部尾の横田大明神の神主が森山の美保大明神の神主と同一であることを明示したくなかったのであろう)、目録では横田・美保大明神で、神主名を引用している。両方の棟札にそれぞれ問題がある。

 

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