koewokiku(HPへ)

« 大芦浦について4 | トップページ | 大芦浦について6 »

2020年1月10日 (金)

大芦浦について5

 将軍神社について再確認すると、永禄年間に大芦村西部の楡木から別所に遷ったとし、それを示す棟札としては宝永四年(一七〇七)の上将軍大明神修復棟札、享保三年(一七八一)上将軍大明神造立棟札、享保一一年の上将軍大明神修復棟札、享保一八年の下将軍大明神修復棟札、享保二〇年(一七三五)の上将軍大明神の修復棟札が残っている。二〇年のものは詳細で、庄屋(髙井)・年寄(髙井)・大工(野津)各一名と本願二名(田中・宇田)に続いて八名(宇田五名、小田三名)の名が記されている。神主は一九年後の宝暦四年の上将軍大明神の修復棟札と同じ小具若狭守藤原定長である。宝暦四年は造立・建立ではなく修復であり、享保二〇年の修復後に廃絶した可能性は低いのではないか。その後は、文化三年下将軍大明神建立、文政一二年同明神修復、嘉永五年同上葺の棟札が残っている。
 これを踏まえると、北垣の天満宮についても再検討が必要である。天満宮と将軍神社の近世の神主(小具氏)は共に同じ人物であった。また天満宮の建立・修復は北垣だけでなく、濱・小具も担っていた。ここからすると、天満宮も将軍神社と同様、一六世紀後半に大芦村西部から東部北垣の地に遷ったのではないか。明治期の社掌は小具地区にある大碕神社社掌金津氏が兼任していことからすると、小具氏も大碕神社神主で天満宮と将軍神社の神主を兼任していたと思われる。ただし、金津氏は加賀浦の加賀神社神主の一族である(二〇一八年末現在版『島根県宗教法人名簿』によると旧島根町内の神社の神主は金津一族三名が務め、旧大芦村分で掲載されている大埼神社と大埼川辺神社の神主は同一人物である)。
 大芦村の北野氏は天満宮と関係する苗字であるが、東部の北垣ではなく西部楡木にのみある(『島根町誌』、一九八一年当時)。なお、大芦村を構成する地域を西部から順に記すと、楡木、濱・海鳥、小具・別所、北垣・垣之内となる。楡木・濱・小具・北垣は海岸部で、海鳥、別所、垣之内は内陸部となる。小具にある大埼神社神主であった小具氏も楡木の東に隣接する濱にのみみられる(『同』)。天満宮の造営・修復には濱・小具の人々も担っていた。小具氏が天満宮とともに兼任していた将軍神社は楡木にあったものが、永禄年間に別所に遷ったものとされる。以上の点を踏まえると、天満宮も戦国期までは大芦西部にあったと思われる。戦国期に天満宮と将軍神社が東部に遷る背景としては、尼子氏と毛利氏の合戦により、神社が焼失したことと、その結果、支配者が毛利氏方の国人に変わったことが考えられる。

 

« 大芦浦について4 | トップページ | 大芦浦について6 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 大芦浦について4 | トップページ | 大芦浦について6 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ