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2020年1月 5日 (日)

白河院と知行国制1

 知行国の返上・改給で述べた内容について、具体的に再検討する。最初に、藤原基隆が康和三年以降の返上・改給の先例を挙げていたが、これと、院分国が康和元年時点で増加していたことは関連があるであろう。承徳三年(一〇九九)六月の関白師通の死が変化のきっかけとなったことは前述の通りである。院分国のみならず、院近臣に与えられた知行国の数も増加したのである。
 先例の二番目に挙げられた「大納言藤原朝臣」については、権大納言藤原公実に比定して検討したが、『大日本史料』では藤原ではなく「源」の誤りヵとしている。とすると大納言源俊明となる。公実は鳥羽天皇との外戚関係を背景に関白補任を求めたが、迷う白河院に対して、要求を容れるべきではないと進言したのが俊明であった。その嫡子能俊も白河院、鳥羽院、待賢門院庁の中心となった。ここでは三例目に挙げられた権大納言治部卿俊実について検討し、それを踏まえて俊明について検討を加えたい。俊実の父隆俊は宇治大納言隆国の子で、俊明より一九才年上の同母兄である。
 『古事談』には隆国の四才年上の同母兄顕基が藤原頼通のもとを訪れた際の逸話が収録されている。顕基は後一条天皇の寵臣であったが、天皇が死亡し七回忌が済むと二君に仕えないとして三七才で権中納言であったにもかかわらず出家し、永承二年(一〇四七)九月に四八才で死亡している。一方、頼通は治暦四年(一〇六八)四月の後冷泉天皇の死亡により宇治に籠居している。顕基が死亡した時点で頼通は五六才であった。出家の身で頼通のもとを訪れた顕基は俗世の話題には触れずに夜明け近くに帰ろうとしたが、帰り際に「俊実は不覚者である」と述べたという。俊実の父隆俊は顕基の甥であるが、『古事談』や同様の逸話を載せる『撰集抄』では顕基が「子息」だとされている。現実的に可能な解釈としては、俊実の母が顕基の娘ということぐらいであろうか。俊実の誕生の翌年に顕基は死亡している。頼通が死亡した時点で俊実は二九才正四位下で、一方、顕基の嫡子資綱は父の出家後の長元九年(一〇四一)正月に正五位下、翌二月には妻の父民部卿源道方の譲りで従四位下に叙されているが、その三年後(一〇四四)に道方は七七才で死亡している。それが顕基死亡直前の永承二年八月に蔵人頭に補任されている。俊実が述べた子息とは俊実ではなく資綱であった可能性が高いが、それが俊実に変化したことには背景があるのではないか。

 

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